ん、御嶽だよ。山はまだ雪だね。」
と半蔵は連れの少年に言って見せた。層々相重なる幾つかの三角形から成り立つような山々は、それぞれの角度をもって、剣ヶ峰を絶頂とする一大|巌頭《がんとう》にまで盛り上がっている。隠れたところにあるその孤立。その静寂。人はそこに、常なく定めなき流転《るてん》の力に対抗する偉大な山嶽《さんがく》の相貌《そうぼう》を仰ぎ見ることができる。覚明行者《かくみょうぎょうじゃ》のような早い登山者が自ら骨を埋《うず》めたと言い伝えらるるのもその頂上にある谿谷《けいこく》のほとりだ。
「お師匠さま、早く行きましょう。」
と言い出すのは勝重ばかりでなかった。そう言われる半蔵も、自然のおごそかさに打たれて、長くはそこに立っていられなかった。早く王滝の方へ急ぎたかった。
御嶽山のふもとにあたる傾斜の地勢に倚《よ》り、王滝川に臨み、里宮の神職と行者の宿とを兼ねたような禰宜《ねぎ》の古い家が、この半蔵らを待っていた。川には橋もない。山から伐《き》って来た材木を並べ、筏《いかだ》に組んで、村の人たちや登山者の通行に備えてある。半蔵は三沢《みさわ》というところでその渡しを渡って、日の暮れるころに禰宜《ねぎ》の宮下の家に着いた。
「皆さんは馬籠の方から。それはよくお出かけくださいました。馬籠の御本陣ということはわたしもよく聞いております。」
と言って半蔵を迎えるのは宮下の主人だ。この禰宜《ねぎ》は言葉をついで、
「いかがです。お宅の方じゃもう花もおそいでしょうか。」
「さあ、山桜が三分ぐらいは残っていましたよ。」と半蔵が答える。
「それですもの。同じ木曾でも陽気は違いますね。南の方の花の便《たよ》りを聞きましてから、この王滝辺のものが花を見るまでには、一月《ひとつき》もかかりますよ。」
「ね、お師匠さま。わたしたちの来る途中には、紫色の山つつじがたくさん咲いていましたっけね。」
と勝重も言葉を添えて、若々しい目つきをしながら周囲を見回した。
半蔵らは夕日の満ちた深い谷を望むことのできるような部屋《へや》に来ていた。障子の外へは川鶺鴒《かわせきれい》も来る。部屋の床の間には御嶽山|蔵王大権現《ざおうだいごんげん》と筆太に書いた軸が掛けてあり、壁の上には注連繩《しめなわ》なぞも飾ってある。
「勝重さん、来てごらん、これが両部神道というものだよ。」
と半蔵は
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