ある。幕府の老中らは宮様の御降嫁をもって協調の実《じつ》を挙《あ》ぐるに最も適当な方法であるとし、京都所司代の手を経《へ》、関白《かんぱく》を通して、それを叡聞《えいぶん》に達したところ、帝にはすでに有栖川《ありすがわ》家と御婚約のある宮様のことを思い、かつはとかく騒がしい江戸の空へ年若な女子を遣《つか》わすのは気づかわれると仰せられて、お許しがなかった。この御結婚には宮様も御不承知であった。ところが京都方にも、公武合体の意見を抱《いだ》いた岩倉具視《いわくらともみ》、久我建通《くがたてみち》、千種有文《ちぐさありぶみ》、富小路敬直《とみのこうじひろなお》なぞの有力な人たちがあって、この人たちが堀河《ほりかわ》の典侍《てんじ》を動かした。堀河の典侍は帝の寵妃《ちょうひ》であるから、この人の奏聞《そうもん》には帝も御耳を傾けられた。宮様には固く辞して応ずる気色《けしき》もなかったが、だんだん御乳の人|絵島《えしま》の言葉を聞いて、ようやく納得せらるるようになった。年若な宮様は健気《けなげ》にも思い直し、自ら進んで激しい婦人の運命に当たろうとせられたのである。
 この宮様は婿君《むこぎみ》(十四代将軍、徳川|家茂《いえもち》)への引き出物として、容易ならぬ土産《みやげ》を持参せらるることになった。「蛮夷《ばんい》を防ぐことを堅く約束せよ」との聖旨がそれだ。幕府としては、今日は兵力を動かすべき時機ではないが、今後七、八年ないし十年の後を期し、武備の充実する日を待って、条約を引き戻《もど》すか、征伐するか、いずれかを選んで叡慮《えいりょ》を安んずるであろうという意味のことが、あらかじめ奉答してあった。
 しかし、このまれな御結婚には多くの反対者を生じた。それらの人たちによると、幕府に攘夷《じょうい》の意志のあろうとは思われない。その意志がなくて蛮夷の防禦《ぼうぎょ》を誓い、国内人心の一致を説くのは、これ人を欺き自らをも欺くものだというのである。宮様の御降嫁は、公武の結婚というよりも、むしろ幕府が政略のためにする結婚だというのである。幕府が公武合体の態度を示すために、帝に供御《くご》の資を献じ、親王や公卿《くげ》に贈金したことも、かえって反対者の心を刺激した。
「欺瞞《ぎまん》だ。欺瞞だ。」
 この声は、どんな形になって、どんなところに飛び出すかもしれなかった。西は大津《おお
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