顔に言っていた。
吉左衛門はなかなかの元気だった。六十三歳の老体とは言いながら、いざと言えばそばにいるものがびっくりするような大きな声で、
「オイ、駕籠《かご》だ。」
と人を呼ぶほどの気力を見せた。
宮様お迎え御同勢の通行で、にぎわしい街道の混雑はもはや九日あまりも続いた。伊那《いな》の百姓は自分らの要求がいれられたという顔つきで、二十五人ほどずつ一組になって、すでに馬籠へも働きに入り込んで来た。やかましい増助郷《ましすけごう》の問題のあとだけに朝勤め夕勤めの人たちを街道に迎えることは半蔵にも感じの深いものがあった。どうして、この多数の応援があってさえ、続々関東からやって来る御同勢の継立てに充分だとは言えなかったくらいだ。馬籠峠から先は落合に詰めている尾州の人足が出て、お荷物の持ち運びその他に働くというほどの騒ぎだ。時には、半蔵はこの混雑の中に立って、怪我人《けがにん》を載せた四|挺《ちょう》の駕籠が三留野《みどの》の方から動いて来るのを目撃した。宮様のお泊まりにあてられるという三留野の普請所では、小屋がつぶれて、けがをした尾張の大工たちが帰国するところであるという。その時になると、神葬祭の一条も、何もかも、この街道の空気の中に埋《うず》め去られたようになった。和宮様|御下向《ごげこう》のうわさがあるのみだった。
宮様は親子《ちかこ》内親王という。京都にある帝とは異腹《はらちがい》の御兄妹《ごきょうだい》である。先帝第八の皇女であらせらるるくらいだから、御姉妹も多かった。それがだんだん亡《な》くなられて、御妹としては宮様ばかりになったから、帝の御いつくしみも深かったわけである。宮様は幼いころから有栖川《ありすがわ》家と御婚約の間柄であったが、それが徳川将軍に降嫁せらるるようになったのも、まったく幕府の懇望にもとづく。
もともと公武合体の意見は、当時の老中|安藤対馬《あんどうつしま》なぞのはじめて唱え出したことでもない。天璋院《てんしょういん》といえば、当時すでに未亡人《みぼうじん》であるが、その人を先の将軍の御台所《みだいどころ》として徳川家に送った薩摩《さつま》の島津氏などもつとに公武合体の意見を抱《いだ》いていて、幕府有司の中にも、諸藩の大名の中にもこの説に共鳴するものが多かった。言わば、国事の多端で艱難《かんなん》な時にあらわれて来た協調の精神で
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