初めてこんなものを見ました。おばあさんに一つ分けていただいて、馬籠の方へも持って行って見せましょう。」
とお民が言う。
「そいつは、よした方がいい。」
寿平次は兄らしい調子で妹を押しとどめた。
文久元年の六月を迎えるころで、さかんな排外熱は全国の人の心を煽《あお》り立てるばかりであった。その年の五月には水戸藩浪士らによって、江戸|高輪東禅寺《たかなわとうぜんじ》にあるイギリス公使館の襲撃さえ行なわれたとの報知《しらせ》もある。その時、水戸側で三人は闘死し、一人《ひとり》は縛に就《つ》き、三人は品川で自刃《じじん》したという。東禅寺の衛兵で死傷するものが十四人もあり、一人の書記と長崎領事とは傷ついたともいう。これほど攘夷《じょうい》の声も険しくなって来ている。どうして飯田の商人がくれた横浜土産の一つでも、うっかり家の外へは持ち出せなかった。
お民が馬籠をさして帰って行く日には、寿平次も半蔵の父に用事があると言って、妹を送りながら一緒に行くことになった。彼には伊那《いな》助郷《すけごう》の願書の件で、吉左衛門の調印を求める必要があった。野尻《のじり》、三留野《みどの》はすでに調印を終わり、残るところは馬籠の庄屋のみとなったからで。
ちょうど馬籠の本陣からは、下男の佐吉がお民を迎えに来た。佐吉はお粂《くめ》を背中にのせ、後ろ手に幼いものを守るようにして、足の弱い女の子は自分が引き受けたという顔つきだ。お民もしたくができた。そこで出かけた。
「寿平次さま、横須賀行きを思い出すなし。」
足掛け四年前の旅は、佐吉にも忘れられなかったのだ。
寿平次が村のあるところは、大河の流れに近く、静母《しずも》、蘭《あららぎ》の森林地帯に倚《よ》り、木曾の山中でも最も美しい谷の一つである。馬籠の方へ行くにはこの谷の入り口を後ろに見て、街道に沿いながら二里ばかりの峠を上る。めったに家を離れることのないお民が、兄と共に踏んで行くことを楽しみにするも、この山道だ。街道の両側は夏の日の林で、その奥は山また山だ。木曾山一帯を支配する尾張藩《おわりはん》の役人が森林保護の目的で、禁止林の盗伐を監視する白木《しらき》の番所も、妻籠と馬籠の間に隠れている。
午後の涼しい片影ができるころに、寿平次らは復興最中の馬籠にはいった。どっちを向いても火災後の宿場らしく、新築の工事は行く先に始まりか
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