にもなってまだ子供がない。おれはお前たちがうらやましい。」
 そこへおばあさんが来た。おばあさんは木曾の山の中にめずらしい横浜|土産《みやげ》を置いて行った人があると言って、それをお民のいるところへ取り出して来て見せた。
「これだよ。これはお洗濯《せんたく》する時に使うものだそうなが、使い方はこれをくれた人にもよくわからない。あんまり美しいものだから横浜の異人屋敷から買って来たと言って、飯田《いいだ》の商人が土産に置いて行ったよ。」
 石鹸《せっけん》という言葉もまだなかったほどの時だ。くれる飯田の商人も、もらう妻籠のおばあさんも、シャボンという名さえ知らなかった。おばあさんが紙の包みをあけて見せたものは、異国の花の形にできていて、薄桃色と白とある。
「御覧、よい香気《におい》だこと。」
 とおばあさんに言われて、お民は目を細くしたが、第一その香気《におい》に驚かされた。
「お粂《くめ》、お前もかいでごらん。」
 お民がその白い方を女の子の鼻の先へ持って行くと、お粂はそれを奪い取るようにして、いきなり自分の口のところへ持って行こうとした。
「これは食べるものじゃないよ。」とお民はあわてて、娘の手を放させた。「まあ、この子は、お菓子と間違えてさ。」
 新しい異国の香気《におい》は、そこにいるだれよりも寿平次の心を誘った。めずらしい花の形、横に浮き出している精巧なローマ文字――それはよく江戸|土産《みやげ》にもらう錦絵《にしきえ》や雪駄《せった》なぞの純日本のものにない美しさだ。実に偶然なことから、寿平次は西洋ぎらいでもなくなった。古銭を蒐集《しゅうしゅう》することの好きな彼は、異国の銀貨を手に入れて、人知れずそれを愛翫《あいがん》するうちに、そんな古銭にまじる銀貨から西洋というものを想像するようになった。しかし彼はその事をだれにも隠している。
「これはどうして使うものだろうねえ。」とおばあさんはまたお民に言って見せた。「なんでも水に溶かすという話を聞いたから、わたしは一つ煮て見ましたよ。これが、お前、ぐるぐる鍋《なべ》の中で回って、そのうちに溶けてしまったよ。棒でかき回して見たら、すっかり泡《あわ》になってさ。なんだかわたしは気味が悪くなって、鍋ぐるみ土の中へ埋めさせましたよ。ひょっとすると、これはお洗濯《せんたく》するものじゃないかもしれないね。」
「でも、わたしは
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