みち》も変った。家の構造《たてかた》も変った。店の飾り付も変った。そこここに高く聳《そび》ゆる宏大な建築物《たてもの》は、壮麗で、斬新で、燻《くす》んだ従来の形式を圧倒して立つように見えた。何もかも進もうとしている。動揺している。活気に溢《あふ》れている。新しいものが旧《ふる》いものに代ろうとしている。八月の日の光は窓の外に満ちて、家々の屋根と緑葉《みどりは》とに映《うつ》り輝いて、この東京の都を壮んに燃えるように見せた。見るもの聞くものは烈しく原の心を刺激したのである。原は相川と一緒に電車を下りた時、馳《は》せちがう人々の雑沓《ざっとう》と、混乱《いりみだ》れた物の響とで、すこし気が遠くなるような心地《ここち》もした。
新しい公園の光景《ありさま》はやがて二人の前に展《ひら》けた。池と花園との間の細い小径《こみち》へ出ると、「かくれみの」の樹の葉が活々《いきいき》と茂り合っていて、草の上に落ちた影は殊に深い緑色に見えた。日に萎《しお》れたような薔薇《ばら》の息は風に送られて匂って来る。それを嗅《か》ぐと、急に原は金沢の空を思出した。畠を作ったり、鶏を飼ったりした八年間の田園生活、奈何《どんな》にそれが原の身にとって、閑散《のんき》で、幽静《しずか》で、楽しかったろう。原はこれから家を挙げて引越して来るにしても、角筈《つのはず》か千駄木《せんだぎ》あたりの郊外生活を夢みている。足ることを知るという哲学者のように、原は自然に任せて楽もうと思うのであった。
美しい洋傘《こうもり》を翳《さ》した人々は幾群か二人の側を通り過ぎた。互に当時の流行を競い合っての風俗は、華麗《はで》で、奔放《ほしいまま》で、絵のように見える。色も、好みも、皆な変った。中には男に孅弱《しなやか》な手を預け、横から私語《ささや》かせ、軽く笑いながら樹蔭を行くものもあった。妻とすら一緒に歩いたことのない原は、時々立留っては眺め入った。「これが首を延して翹望《まちこが》れていた、新しい時代というものであろうか」こう原は自分で自分に尋ねて見たのである。
奏楽堂の後へ出た頃、原は眺め入って、
「しかし、お互いに年をとったね」
と言い出した。相川は笑って、
「年をとった? 僕は今までそんなことを思ったことは無いよ」
「そうかなあ」と原も微笑《ほほえ》んで、「僕はある。一昨日《おととい》も大学の柏木君に逢ったがね、ああ柏木君も年をとったなあ、とそう思ったよ。誰だって、君、年をとるサ。僕などを見給え。頭に白髪が生えるならまだしもだが、どうかすると髯《ひげ》にまで出るように成ったからねえ」
「心細いことを云い出したぜ」と相川は腹の中で云った。年をとるなんて、相川に言わせると、そんなことは小欠《おくび》にも出したくなかった。昔の束髪連《そくはつれん》なぞが蒼《あお》い顔をして、光沢《つや》も失くなって、まるで老婆然《おばあさんぜん》とした容子《ようす》を見ると、他事《ひとごと》でも腹が立つ。そういう気象だ。「お互いに未だ三十代じゃないか――僕なぞはこれからだ」と相川は心に繰返していた。
二人は並んで黙って歩いた。
やや暫時《しばらく》経って、原は金沢の生活の楽しかったことを説き初めた。大な士族邸を借て住んだこと、裏庭には茶畠もあれば竹薮《たけやぶ》もあったこと、自分で鍬《くわ》を取って野菜を作ったこと、西洋の草花もいろいろ植えて、鶏も飼う、猫も居る――丁度、八年の間、百姓のように自然な暮しをしたことを話した。
原は聞いて貰《もら》う積りで、市中には事業があっても生活が無い、生活のあるのは郊外だ――そこで自分の計画には角筈か千駄木あたりへ引越して来る、とにかく家を移す、先ず住むことを考えて、それから事業《しごと》の方に取掛る、こう話した。
「それじゃあ、家の方は大凡《おおよそ》見当がついたというものだね」と相川は尋ねた。
「そうサ」
「ははははは。原君と僕とは大分違うなあ。僕なら先ず事業を探すよ――家の方なんざあどうでも可《い》い」
「しかし、出て来て見たら、何かまた事業があるだろうと思うんだ」
「容易に無いね――先ず一年位は遊ぶ覚悟でなけりゃあ」
家を中心にして一生の計画《はかりごと》を立てようという人と、先ず屋《うち》の外に出てそれから何事《なに》か為《し》ようという人と、この二人の友達はやがて公園内の茶店《さてん》へ入った。涼しい風の来そうなところを択《えら》んで、腰を掛けて、相川は洋服の落袋《かくし》から巻煙草を取り出す。原は黒絽《くろろ》の羽織のまま腕まくりして、※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]子《ハンケチ》で手の汗を拭いた。
黄に盛り上げた「アイスクリイム」、夏の果物、菓子等がそこへ持運ばれた。相川は巻煙草を燻《ふか》しながら、
「時に、原君、今度はどうかいう計画があって引越して来るかね」
「計画とは?」と原は※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]子《ハンケチ》で長い口髭を拭いた。
「だって君、そうじゃないか、やがてお互いに四十という声を聞くじゃないか」
「だから僕も田舎を辞《や》めて来たような訳さ。それに、まあ差当りこれという職業《しごと》も無いが、その内にはどうかなるだろうと思って――」
「いや」相川は原の言葉を遮《さえぎ》って、「その何さ――これからの方針さ。もう君、一生の事業に取掛っても可《よ》かろう」
「それには僕はこういうことを考えてる」と原は濃い眉を動《うごか》して、「一つ図書館をやって見たいと思ってる」
「むむ、図書館も面白かろう」と相川は力を入れた。
「既に金沢の方で、学校の図書室を預って、多少その方の経験もあるが、何となく僕の趣味に適するんだね――あの議院に附属した大な図書館でもあると、一つ行《や》って見たいと思うんだが――」
原は口髭を捻《ひね》りながら笑った。
茶店《さてん》の片隅《かたすみ》には四五人の若い給仕女が集って小猫を相手に戯れていた。時々高い笑声が起る。小猫は黒毛の、眼を光らせた奴で、いつの間にか二人の腰掛けている方へ来て鳴いた。やがて原の膝の上に登った。
「好きな人は解るものと見えるね」と相川は笑いながら原が小猫の頭を撫《な》でてやるのを眺めた。
「それはそうと、原君、長く田舎に居て随分勉強したろうね」
「僕かい」と原は苦笑《にがわらい》して、「僕なぞは別に新しいものを読まないさ。此頃《こないだ》も英吉利《イギリス》の永田君から手紙が来たがね、お互いにチョン髷《まげ》党だッて――」
「そう謙遜《けんそん》したものでもなかろう。バルザックやドウデエなぞを読出したのは、君の方が僕より早いぜ――見給え」
「あの時分は夢中だった」と原は言消して、やがて気を変えて、「君こそ勉強したろう。君は大陸通だ、という評判だ」
「大陸通という程でも無いがね、まあ露西亜《ロシア》物は大分集めた」と相川は思出したように、「この節、復《ま》たツルゲネエフを読出した。晩年の作で、ホラ、「ヴァジン・ソイル」――あれを会社へ持って行って、暇に披《あ》けて見てるが、ネズダノオフという主人公が出て来らあね。何だかこう自分のことを書いたんじゃないか、と思うようなところがあるよ」
その時、大学生の青木が、布施《ふせ》という友達と一緒に、この茶店へ入って来た。「やあ」という声は双方から一緒に出た。相川の周囲《まわり》は遽然《にわかに》賑《にぎや》かに成った。
「原君、御紹介しましょう」と相川は青木の方を指《ゆびさ》して、「青木君――大学の英文科に居られる」
「ああ、貴方が青木さんですか。御書きに成ったものは克《よ》く雑誌で拝見していました」と原は丁寧に挨拶する。
青木は銀縁の眼鏡を掛けた、髪を五分刈にしている男で、原の出様が丁寧であった為に、すこし極りのわるそうに挨拶した。
「是方《こちら》は」と相川は布施の方を指して、「布施君――矢張《やはり》青木君と同級です」
布施は髪を見事に分けていた。男らしいうちにも愛嬌《あいきょう》のある物の言振《いいぶり》で、「私は中学校に居る時代から原先生のものを愛読しました」
「この布施君は永田君に習った人なんです」と相川は原の方を向いて言った。
「永田君に?」と原は可懐《なつか》しそうに。
「はあ、永田先生には非常に御厄介に成りました」と布施は答えた。
「青木君、洋服は珍しいね」と相川は笑いながら、「むう、仲々好く似合う」
「青木君は――」と布施は引取って、「洋服を着たら若くなったという評判です」
「どうも到る処でひやかされるなあ」と青木は五分刈の頭を撫でた。
「時に、会の方はどう定《きま》りました」と相川は尋ねた。
「乙骨先生の講演、これは動きません。それから高瀬さんも出て下さると仰在《おっしゃ》いました」こう布施は答える。
「高瀬は、君、あんまり澄してるからね、ちっと引張《ひっぱり》出さんけりゃ不可《いかん》よ」と言って、相川は原の方を見て、「君も引越して来たら、是非|吾儕《われわれ》の会の為に尽力してくれ給え」
「何卒《どうぞ》、原先生にも御話を一つ」と布施は敬意を表《あらわ》して言った。
「駄目です」と原は謙遜な調子で、「今相川君にも話したんですが、僕なぞは最早《もう》チョン髷の方で――」
「そんなことは有ません」と布施は言葉を和《やわら》げて、さも可懐《なつか》しそうに、「実際、私は原先生のものを愛読しましたよ。永田先生にも克《よ》くその話をしましたッけ」
「まあ、私達は先生方が産んで下すった子供なんです」と青木は附加《つけた》した。
眼鏡越しに是方《こちら》を眺める青木の眼付の若々しさ、往時《むかし》を可懐《なつか》しがる布施の容貌《おもて》に顕《あらわ》れた真実――いずれも原の身にとっては追懐《おもいで》の種であった。相川や、乙骨や、高瀬や、それから永田なぞと、よく往ったり来たりした時代は、最早遠く過去《うしろ》になったような気がする。間も無く四人はこの茶店を出た。細い幹の松が植えてある芝生の間の小径《こみち》のところで、相川、原の二人は書生連に別れて、池に添うて右の方へ曲った。原が振返った時は、もう青木も布施も見えなかった。
原は嘆息して、
「今の若い連中は仲々面白いことを考えてるようだね」
「そりゃあ、君、進んでいるさ」と相川は歩きながら新しい巻煙草に火を点《つ》けた。「吾儕《われわれ》の若い時とは違うさ」
「そうだろうなあ」
「それに、あの二人なぞは立派に働ける人達だよ――どうして、君、よく物が解ってらあね」
こういう言葉を交換《とりかわ》して歩いて行くうちに、二人は池に臨んだ石垣の上へ出て来た。樹蔭に置並べた共同腰掛には午睡《ひるね》の夢を貪《むさぼ》っている人々がある。蒼ざめて死んだような顔付の女も居る。貧しい職人|体《てい》の男も居る。中には茫然《ぼんやり》と眺め入って、どうしてその日の夕飯《ゆうめし》にありつこうと案じ煩《わずら》うような落魄《らくはく》した人間も居る。樹と樹との間には、花園の眺めが面白く展けて、流行を追う人々の洋傘《こうもり》なぞが動揺する日の光の中に輝く光影《さま》も見える。
二人は鬱蒼《こんもり》とした欅《けやき》の下を択《えら》んだ。そこには人も居なかった。
「今日は疲れた」
と相川はがっかりしたように腰を掛ける。原は立って眺め入りながら、
「相川君、何故《なぜ》、こう世の中が急に変って来たものだろう。この二三年、特に激しい変化が起ったのかねえ、それとも、十年前だって同じように変っていたのが、唯|吾儕《われわれ》に解らなかったのかねえ」
「そうさなあ」と相川は胸を突出して、「この二三年の変化は特に急激なんだろう。こういう世の中に成って来たんだ」
「戦争の影響かしら」
「無論それもある。それから、君、電車が出来て交通は激しくなる――市区改正の為にどしどし町は変る――東京は今、革命の最中だ」
「海老茶《えびちゃ》も勢力に成ったね」と原は思出したように。
「うん海老茶か」と相川は考深い眼付をして言った。
「女も変った」と原は力を
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