《かんがえ》は近頃になって殊《こと》に烈《はげ》しく彼の胸中を往来する。その為に深夜《よふけ》までも思い耽《ふけ》る、朝も遅くなる、つい怠り勝に成るような仕末。彼は長い長い腰弁生活に飽き疲れて了った。全くこういうところに縛られていることが相川の気質に適《む》かないのであって、敢《あえ》て、自ら恣《ほしいまま》にするのでは無い、と心を知った同僚は弁護してくれる。「相川さん、遅刻届は活版|摺《ずり》にしてお置きなすったら、奈何《いかが》です」などと、小癪《こしゃく》なことを吐《ぬか》す受付の小使までも、心の中では彼の貴い性質を尊敬して、普通の会社員と同じようには見ていない。
 日本橋呉服町に在る宏壮《おおき》な建築物《たてもの》の二階で、堆《うずたか》く積んだ簿書の裡《うち》に身を埋《うず》めながら、相川は前途のことを案じ煩《わずら》った。思い疲れているところへ、丁度小使が名刺を持ってやって来た。原としてある。原は金沢の学校の方に奉職していて、久し振で訪ねて来た。旧友――という人は数々ある中にも、この原、乙骨《おつこつ》、永田、それから高瀬なぞは、相川が若い時から互いに往来した親しい間柄だ
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