《か》く闇黒の中に坐するは、吾事業なるか――」
 ずっと旧《ふる》いところの稿《もの》には、こんなことも書いてある。
 豪爽《ごうそう》な感想《かんじ》のする夏の雨が急に滝のように落ちて来た。屋根の上にも、庭の草木の上にも烈しく降りそそいだ。冷《すず》しい雨の音を聞きながら、今昔《こんせき》のことを考える。蚊帳《かや》の中へ潜《もぐ》り込んでからも、相川は眠られなかった。多感多情であった三十何年の生涯をその晩ほど想い浮べたことはなかったのである。
 寝苦しさのあまりに戸を開けて見た頃は、雨も最早《もう》すっかり止んでいた。洗ったような庭の中が何となく青白く見えるは、やがて夜が明けるのであろう。
「短夜《みじかよ》だ」
 と呟《つぶや》いて、復《ま》た相川は蚊帳の内へ入った。
 翌日《あくるひ》、原は午前のうちに訪ねて来た。相川の家族はかわるがわる出て、この珍客を款待《もてな》した。七歳になる可愛らしい女の児を始め、四人の子供はめずらしそうに、この髭《ひげ》の叔父さんを囲繞《とりま》いた。
[#ここから8字下げ]
御届
[#ここから4字下げ]
私儀、病気につき、今日欠勤|仕《つかまつ》り度《たく》、此《この》段御届に及び候《そうろう》也。
[#ここで字下げ終わり]
 こう相川は書いて、それを車夫に持たせて会社へ届けることにした。
「原さんで御座ましたか。すっかり私は御見それ申して了いましたよ」
 と国訛《くになま》りのある語調《ちょうし》で言って、そこへ挨拶《あいさつ》に出たのは相川の母親《おふくろ》である。
「どうも私の為に会社を御休み下すっては御気の毒ですなあ」
 と原は相川の妻の方へ向いて言った。
「なんの、貴方《あなた》、稀《たま》にいらしって下すったんですもの」と相川の妻は如才なく、「どんなにか宿でも喜んでおりますんですよ」
 こういう話をしているうちに、相川は着物を着|更《か》えた。やがて二人の友達は一緒に飯田町の宿を出た。
 昼飯《ひる》は相川が奢《おご》った。その日は日比谷《ひびや》公園を散歩しながら久し振でゆっくり話そう、ということに定《き》めて、街鉄《がいてつ》の電車で市区改正中の町々を通り過ぎた。日比谷へ行くことは原にとって始めてであるばかりでなく、電車の窓から見える市街の光景《ありさま》は総《すべ》て驚くべき事実を語るかのように思われた。道路《みち》も変った。家の構造《たてかた》も変った。店の飾り付も変った。そこここに高く聳《そび》ゆる宏大な建築物《たてもの》は、壮麗で、斬新で、燻《くす》んだ従来の形式を圧倒して立つように見えた。何もかも進もうとしている。動揺している。活気に溢《あふ》れている。新しいものが旧《ふる》いものに代ろうとしている。八月の日の光は窓の外に満ちて、家々の屋根と緑葉《みどりは》とに映《うつ》り輝いて、この東京の都を壮んに燃えるように見せた。見るもの聞くものは烈しく原の心を刺激したのである。原は相川と一緒に電車を下りた時、馳《は》せちがう人々の雑沓《ざっとう》と、混乱《いりみだ》れた物の響とで、すこし気が遠くなるような心地《ここち》もした。
 新しい公園の光景《ありさま》はやがて二人の前に展《ひら》けた。池と花園との間の細い小径《こみち》へ出ると、「かくれみの」の樹の葉が活々《いきいき》と茂り合っていて、草の上に落ちた影は殊に深い緑色に見えた。日に萎《しお》れたような薔薇《ばら》の息は風に送られて匂って来る。それを嗅《か》ぐと、急に原は金沢の空を思出した。畠を作ったり、鶏を飼ったりした八年間の田園生活、奈何《どんな》にそれが原の身にとって、閑散《のんき》で、幽静《しずか》で、楽しかったろう。原はこれから家を挙げて引越して来るにしても、角筈《つのはず》か千駄木《せんだぎ》あたりの郊外生活を夢みている。足ることを知るという哲学者のように、原は自然に任せて楽もうと思うのであった。
 美しい洋傘《こうもり》を翳《さ》した人々は幾群か二人の側を通り過ぎた。互に当時の流行を競い合っての風俗は、華麗《はで》で、奔放《ほしいまま》で、絵のように見える。色も、好みも、皆な変った。中には男に孅弱《しなやか》な手を預け、横から私語《ささや》かせ、軽く笑いながら樹蔭を行くものもあった。妻とすら一緒に歩いたことのない原は、時々立留っては眺め入った。「これが首を延して翹望《まちこが》れていた、新しい時代というものであろうか」こう原は自分で自分に尋ねて見たのである。
 奏楽堂の後へ出た頃、原は眺め入って、
「しかし、お互いに年をとったね」
 と言い出した。相川は笑って、
「年をとった? 僕は今までそんなことを思ったことは無いよ」
「そうかなあ」と原も微笑《ほほえ》んで、「僕はある。一昨日《おととい》も大学の柏木君に
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング