逢ったがね、ああ柏木君も年をとったなあ、とそう思ったよ。誰だって、君、年をとるサ。僕などを見給え。頭に白髪が生えるならまだしもだが、どうかすると髯《ひげ》にまで出るように成ったからねえ」
「心細いことを云い出したぜ」と相川は腹の中で云った。年をとるなんて、相川に言わせると、そんなことは小欠《おくび》にも出したくなかった。昔の束髪連《そくはつれん》なぞが蒼《あお》い顔をして、光沢《つや》も失くなって、まるで老婆然《おばあさんぜん》とした容子《ようす》を見ると、他事《ひとごと》でも腹が立つ。そういう気象だ。「お互いに未だ三十代じゃないか――僕なぞはこれからだ」と相川は心に繰返していた。
二人は並んで黙って歩いた。
やや暫時《しばらく》経って、原は金沢の生活の楽しかったことを説き初めた。大な士族邸を借て住んだこと、裏庭には茶畠もあれば竹薮《たけやぶ》もあったこと、自分で鍬《くわ》を取って野菜を作ったこと、西洋の草花もいろいろ植えて、鶏も飼う、猫も居る――丁度、八年の間、百姓のように自然な暮しをしたことを話した。
原は聞いて貰《もら》う積りで、市中には事業があっても生活が無い、生活のあるのは郊外だ――そこで自分の計画には角筈か千駄木あたりへ引越して来る、とにかく家を移す、先ず住むことを考えて、それから事業《しごと》の方に取掛る、こう話した。
「それじゃあ、家の方は大凡《おおよそ》見当がついたというものだね」と相川は尋ねた。
「そうサ」
「ははははは。原君と僕とは大分違うなあ。僕なら先ず事業を探すよ――家の方なんざあどうでも可《い》い」
「しかし、出て来て見たら、何かまた事業があるだろうと思うんだ」
「容易に無いね――先ず一年位は遊ぶ覚悟でなけりゃあ」
家を中心にして一生の計画《はかりごと》を立てようという人と、先ず屋《うち》の外に出てそれから何事《なに》か為《し》ようという人と、この二人の友達はやがて公園内の茶店《さてん》へ入った。涼しい風の来そうなところを択《えら》んで、腰を掛けて、相川は洋服の落袋《かくし》から巻煙草を取り出す。原は黒絽《くろろ》の羽織のまま腕まくりして、※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]子《ハンケチ》で手の汗を拭いた。
黄に盛り上げた「アイスクリイム」、夏の果物、菓子等がそこへ持運ばれた。相川は巻煙草を燻《ふか》しながら、
「時に、原君、今度はどうかいう計画があって引越して来るかね」
「計画とは?」と原は※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]子《ハンケチ》で長い口髭を拭いた。
「だって君、そうじゃないか、やがてお互いに四十という声を聞くじゃないか」
「だから僕も田舎を辞《や》めて来たような訳さ。それに、まあ差当りこれという職業《しごと》も無いが、その内にはどうかなるだろうと思って――」
「いや」相川は原の言葉を遮《さえぎ》って、「その何さ――これからの方針さ。もう君、一生の事業に取掛っても可《よ》かろう」
「それには僕はこういうことを考えてる」と原は濃い眉を動《うごか》して、「一つ図書館をやって見たいと思ってる」
「むむ、図書館も面白かろう」と相川は力を入れた。
「既に金沢の方で、学校の図書室を預って、多少その方の経験もあるが、何となく僕の趣味に適するんだね――あの議院に附属した大な図書館でもあると、一つ行《や》って見たいと思うんだが――」
原は口髭を捻《ひね》りながら笑った。
茶店《さてん》の片隅《かたすみ》には四五人の若い給仕女が集って小猫を相手に戯れていた。時々高い笑声が起る。小猫は黒毛の、眼を光らせた奴で、いつの間にか二人の腰掛けている方へ来て鳴いた。やがて原の膝の上に登った。
「好きな人は解るものと見えるね」と相川は笑いながら原が小猫の頭を撫《な》でてやるのを眺めた。
「それはそうと、原君、長く田舎に居て随分勉強したろうね」
「僕かい」と原は苦笑《にがわらい》して、「僕なぞは別に新しいものを読まないさ。此頃《こないだ》も英吉利《イギリス》の永田君から手紙が来たがね、お互いにチョン髷《まげ》党だッて――」
「そう謙遜《けんそん》したものでもなかろう。バルザックやドウデエなぞを読出したのは、君の方が僕より早いぜ――見給え」
「あの時分は夢中だった」と原は言消して、やがて気を変えて、「君こそ勉強したろう。君は大陸通だ、という評判だ」
「大陸通という程でも無いがね、まあ露西亜《ロシア》物は大分集めた」と相川は思出したように、「この節、復《ま》たツルゲネエフを読出した。晩年の作で、ホラ、「ヴァジン・ソイル」――あれを会社へ持って行って、暇に披《あ》けて見てるが、ネズダノオフという主人公が出て来らあね。何だかこう自分のことを書いたんじゃないか、と思うようなところがあるよ」
その時、大学生の青
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