郎ちゃん、わたしを忘れちまったの?」
 これは二人《ふたり》の人の挨拶《あいさつ》のように聞こえるが、次郎は一人《ひとり》でそれを私たちにやって見せた。
「いやな次郎ちゃん――だとサ。」
 と、また次郎が妹に、その婦人の口まねをして見せた。それを聞くと、末子はからだもろとも投げ出すような娘らしい声を出して、そこへ笑いころげた。
 どうしてその婦人のことが、こんなに私たちの間にうわさに上《のぼ》ったかというに、十八年も前に亡《な》くなった私の甥《おい》の一人の配偶《つれあい》で、私の子供たちから言えば母《かあ》さんの友だちであったからで。かつみさんといって、あの甥の達者《たっしゃ》な時分には親しくした人だ。あの甥は土屋《つちや》という家に嫁《とつ》いだ私の実の姉の一人息子《ひとりむすこ》にあたっていて、年も私とは三つしか違わなかった。甥というよりは、弟に近かった。それに、次郎や末子の生まれた家と、土屋の甥のしばらく住んでいた家とは、歩いて通えるほど近い同じ隅田川《すみだがわ》のほとりにあったから、そんな関係から言っても以前にはよく往来した間がらである。次郎のちいさな時分には、かつみさんも
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