いか。どんなものを造り出そうと、お前たちの勝手だからね。」
画布はまだかわかない。新しい絵の具はぬれたように光る。そこから発散する油の香《にお》いも私には楽しかった。次郎は私のそばにいて、しばらくほかの事を忘れたように、じっと自分の画《え》に見入っていた。
「ほら、お前が田舎《いなか》から持って来た画《え》さ。」と、私は言った。「とうさんなら、あのほうを取るね。やっぱし田舎のほうにいて、さびしい思いをしながらかいた画《え》は違うね。」
「そうばかりでもない。」
「でも、あの画《え》には、なんとなく迫って来るものがあるよ。」
私たちが次郎を郷里のほうへ送り出したのは、過ぐる年の秋にあたる。あの恵那《えな》山の見える山地のほうから、次郎はかなり土くさい画《え》を提《さ》げて出て来た。この次郎は、上京したついでに、今しばらく私たちと一緒にいて、春の展覧会を訪《たず》ねたり、旧《ふる》い友だちを見に行ったりして、田舎《いなか》の方で新鮮にして来た自分を都会の濃い刺激に試みようとしていた。
まだ私は金を分けることなぞを何も子供らに話してない。匂《にお》わしてもない。しかし、私としては、そんな心持ちが自分の内に動いて来たというだけでも、子供らによろこんでもらえるように思った。目を円《まる》くしてそれを私から受け取る時の子供らの顔が見えるようにも思った。私は子に甘いと言われることも忘れ、自分が一人《ひとり》ぼっちになって行くことも忘れて、子供らをよろこばせたかった。
それほど私もきげんのよかった時だ。私は四畳半から茶の間のほうへ行って、口さみしい時につまむほどしか残っていない菓子を取り出した。遠く満州の果てから帰国した親戚《しんせき》のものの置いて行ったみやげの残りだ。ロシアあたりの子供でもよろこびそうなボンボンだ。茶の間には末子が婆《ばあ》やを相手に、針仕事をひろげていた。私はその一つ一つ紙にひねってあるボンボンを娘に分け、婆やに分け、次郎のいるところへも戻《もど》って来て分けた。
「次郎ちゃん、おもしろい言葉があるよ。」と、私は言った。「田舎《いなか》へ引っ込むのはね、社会から遠くなるのじゃなくて、自分らの虚栄から遠くなるのだ。という言葉があるよ。勉強のできるのは田舎だね。お前のように田舎にいて、さびしさと戦うのもいい修業じゃないか。」
「しかし、僕はそれに耐えられるほど、まだほんとうに頭ができていない。」
「だから、ときどき出て来るさ。番町の先生の話なぞもききに来るさ。」
「そうだよ。」
「読めるだけはいろいろなものを読んで見るさ。」
「そうだよ。」
その時になって見ると、太郎はすでに郷里のほうの新しい農家に落ちついて、その年の耕作のしたくを始めかけていたし、次郎はゆっくり構えながら、持って生まれた画家の気質を延ばそうとしていた。三郎はまた三郎で、出足の早い友だち仲間と一緒に、新派の美術の方面から、都会のプロレタリアの道を踏もうとしていた。三人が三人、思い思いの方向を執って、同じ時代を歩もうとしていた。末子は、と見ると、これもすでに学校の第三学年を終わりかけて、日ごろ好きな裁縫や手芸なぞに残る一学年の生《お》い先を競おうとしていた。この四人の兄妹《きょうだい》に、どう金を分けたものかということになると、私はその分け方に迷った。
月の三十日までには約束のものを届ける。特製何部。並製何部。この印税一割二分。そのうち社預かり第五回配本の分まで三分。こうした報告が社の会計から、すでに私の手もとへ届くようになった。
私も実は、次郎と三郎とに等分に金を分けることには、すでに腹をきめていた。ただ太郎と末子との分け方をどうしたものか。娘のほうにはいくらか薄くしても、長男に厚くしたものか。それとも四人の兄妹《きょうだい》に同じように分けてくれたものか。そこまでの腹はまだきまらなかった。
娘のしたくのことを世間普通の親のように考えると、第一に金のかかるのは着物だ。そういうしたくに際限はなかろうが、「娘|一人《ひとり》を結婚させるとなると、どうしても千円の金はかかるよ。」と、かつて旧友の一人が私にその話をして聞かせたこともある。そこに私はおおよその見当をつけて、そんなに余分な金までも娘のために用意する必要はあるまいかと思った。太郎は違う。かずかずの心に懸《かか》ることがあの子にはある。年若い農夫としての太郎は、過ぐる年の秋の最初の経験では一人で十八俵の米を作った。自作農として一軒の農家をささえるには、さらに五六俵ほども多く作らせ、麦をも蒔《ま》かせ、高い米を売って麦をも食うような方針を執らせなければならない。私は太郎の労力を省かせるために、あの子に馬を一匹あてがった。副業としての養蚕も将来にはあの子を待っていた。それにしても太郎はまだ年も
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