わるがわる訪《たず》ねて来て、よく登って来たのもその二階だ。そこに私は机を置いて、また著作にふけったが、そのころに私の書いたものが子供らの母《かあ》さんの女学校時代の友だちのうわさにも上《のぼ》ったかして、そういう昔なじみの家庭を見に行って帰って来るたびに、いろいろ友だちから冷やかされたことだの、「お富《とみ》さん(子供らの母さん)もずいぶん人がいい、あんなことを書かれて、黙っている細君があるものか。」と言われたことだの、それをあの母さんが私に話してみせた。でも、そういう人は私の書いたものが旧《ふる》い友だちのうわさに上るというだけにも満足して、にわかに自分の夫を見直すような顔つきであったには、私も苦笑せずにはいられなかった。そのころの私が自分の周囲に見いだす著作者たちはと言えば、そのいずれもが新聞社に関係するとか、学校に教鞭《きょうべん》を執るとか、あるいは雑誌の編集にたずさわるとかして、私のように著作一方で立とうとしているのもめずらしいと言われた。私はよくそう思った。これはまだ著作で家族を養えるような時代ではないのだと。私もやせ我慢にやせ我慢を重ねていたが、親子四人に女中を一人《ひとり》置いて、毎月六七十円の生活費を産み出すにすら骨が折れた。そのころの私たちは十六円の家賃の家で辛抱《しんぼう》したが、それすら高過ぎると思ったくらいだ。
 三年の外国の旅も、私の生涯《しょうがい》の中でのさびしい時であったような気がする。もっとも、その間には、これまで踏んだことのない土を踏み、交わったことのない人にも交わってみ、陰もあり日向《ひなた》もあるのだからその複雑な気持ちはちょっと言葉には尽くせない。実に無造作に、私はあの旅に上《のぼ》って行った。その無造作は、自分の書斎を外国の町に移すぐらいの考えでいた。全く知らない土地に身を置いて見ると、とかく旅の心は落ちつかず、思うように筆も取れない。著作をしても旅を続けられるつもりの私は、かねての約束もその十が一をも果たし得なかった。「これまで外国に来て、著作をしたという人のためしがない。」と言って、ある旅行者に笑われたこともある。でも私は国を出るころから思い立っていた著作の一つだけは、どうにかしてそれを書きあげたいと思ったが、とうとう草稿の半ばで筆を投げてしまった。国への通信を送るぐらいが精いっぱいの仕事であった。それに国との手紙の往復にも多くの日数がかかり世界大戦争の始まってからはことに事情も通じがたいもどかしさに加えて、三年の月日の間には国のほうで起こった不慮な出来事とか種々の故障とかがいっそう旅を困難にした。私も、外国生活の不便はかねて覚悟して行ったようなものの、旅費のことなぞでそう不自由はしないつもりであった。時には前途の思いに胸がふさがって、さびしさのあまり寝るよりほかの分別《ふんべつ》もなかったことを覚えている。
 過去を振り返って見ると、今の私がどうにか不自由もせずに子供らを養って行けるというだけでも、不思議なくらいである。あの子供らの母《かあ》さんの時代のことを思うと、今の借家ずまいでも私には過ぎたものだ。
「富《とみ》とは、生命よりほかの何物でもない。」
 この言葉が私を励ました。
 私は旅人のような心で、今までどおりのごくあたりまえな生活を続けたかった。家は私の宿屋で、子供らは私の道づれだ。その日、その日に不自由さえなくば、それでこの世の旅は足りる。私に肝要なものは、余生を保障するような金よりも強い足腰の骨であった。
 大きくなった子供らと一緒に働くことの新しいよろこび、その考えはどうにか男親の手一つで四人のちいさなものを育てて来た私にふさわしく思われた。私は自分の身につけるよりも、今度の思いがけない収入を延び行く時代のもののほうに向けようと考えるようになった。
 私は自分に言った。
「いっそ、あの金は子供に分けよう。」

 二階はひっそりとしていた。私が階下《した》の四畳半にいて聞くと、時々次郎の話し声がする。末子の笑う声も聞こえて来る。美術書生を兄に持った末子は、肖像の手本としてよくそういうふうに頼まれる。次郎の画作に余念のなかった時だ。
 やがて末子は二階から降りて来た。梯子段《はしごだん》の下のところで、ちょっと私に笑って見せた。
「きょうは眠くなっちゃった。」
「春先だからね。」
 と、私も笑って、手本で疲れたらしい娘を慰めようとした。
 間もなく次郎も一枚の習作を手にして降りて来た。次郎は描《か》いたばかりの妹の肖像を私の部屋《へや》に持って来て、見やすいところに置いて見せた。
「とうさん。これは、どう。」
「おそろしく鼻の高い娘ができたね。」
「そんなにこの鼻は高く見えるかなあ。」
「冗談だよ。とうさんがふざけて言ったんだよ。そんなことは、どうでもいいじゃな
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング