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思いもよらない収入のある話と私が言ったのは、この大量生産の結果で、各著作者の所得をなるべく平均にするために、一割二分の約束の印税の中から社預かりの分を差し引いても、およそ二万円あまりの金が私の手にはいるはずであった。細い筆を力に四人の子供らを養って来た私に取って、今までそんなにまとまって持ってみたこともない金である。
まだ私は受け取りもしないうちから、その金のことを考えるようになった。私たちの家では人を頼んで検印を押すだけに十日もかかった。今度の出版の計画が次第に実現されて行くことを私の子供らもよく知っていた。しかしそんなまとまった金がふところにはいるということを、私は次郎にも末子にも知らせずに置いた。
私は、「財は盗みである」というあの古い言葉を思い出しながら、庭にむいた自分の部屋《へや》の障子に近く行った。四月も半ばを過ぎたころで、狭い庭へも春が来ていた。
私は自分で自分に尋ねてみた。
「これは盗みだろうか。」
それには私は、否《いな》と答えたかった。過ぐる三十年が二度と私の生涯《しょうがい》に来ないように、あの叢書《そうしょ》に入れるはずの私の著作も二つとは私にないものである。長い労苦と努力とから生まれて来たものとして、髪も白さを増すばかりのような私の年ごろに、受けてやましい報酬であるとは思われなかった。
しかし、私も年をとったものだ。少年の時分から私は割合に金銭に淡白なほうで、余分なものをたくわえようとするような、そういう考えをきょうまで起こした覚えもない。今度という今度は、それが私に起こって来た。私もやっぱり、金でもたくわえて置いて、余生を安く送ろうとするような年ごろに達したのかもしれない。日あたりも悪く、風通しも悪く、午後の四時というと階下《した》にある冬の障子はもう薄暗くなって、夏はまた二階に照りつける西日も耐えがたいこんな谷の中の借家にくすぶっているよりか、自分の好きな家でも建て、静かに病後の身を養いたいと考えるような、そういう年ごろに達したのかもしれない。
今でこそあまり往来《ゆきき》もしなくなって、年始状のやり取りぐらいな交際に過ぎないが、私の旧《ふる》い知人の中に一人《ひとり》の美術家がある。私はその美術家の苦しい骨の折れた時代をよく知っているが、いつのまにか人もうらやむような大きな邸《やしき》を構え住むようになった。昔を知る私にはそれが不思議なくらいに思えて、あのわびしさを友としていたような人はどこへ行ったろう、とそれを長い間の疑問として残していた。年をとってみて、私も他人の心を読むようになった。あれはただ裕福な人の邸ではなくて、若い時分に人一倍貧苦をなめ尽くした人の住む家だと気がついた。
次郎や、末子をそばに置いて、私は若いさかりの子供らが知らない貯蓄の誘惑に気を腐らした。あるところにはあり過ぎるような金から見たら、おそらく二万円ぐらいはなんでもないかもしれない。しかし、ないところにはなさ過ぎる金から見たら、それだけまとまった高でも大きい。でも、私は、土の中へでも埋《うず》めて置くように、死に金をしまって置く気はなかった。どうそれを使ったものかと思った。
どの時代を思い出してみても、私にはそう楽《らく》なという日もない。ずっと以前に、私は著作のしたくをするつもりで、三年ばかり山の上に全く黙って暮らしたこともある。私もすでに結婚してから三年目で、家のものなぞはそろそろ単調な田舎《いなか》生活に飽いて来て、こんなことでいつ芽が出るかという顔つきであったし、それに私たちの家ではあの山の上だからやって行けたと思うほどの切り詰めた暮らしをしていたから、そういう不自由さとも戦わねばならなかったし、毎年十一月から翌年の三月へかけて五か月もの長い冬とも戦わねばならなかった。一度降ったら春まで溶けずにある雪の積もりに積もった庭に向いた部屋《へや》で、寒さのために凍《し》み裂ける恐ろしげな家の柱の音なぞを聞きながら、夜おそくまでひとりで机にむかっていた時の心持ちは忘れられない。でも、私はあの山の上から東京へ出て来て見るたびに、とにもかくにも出版業者がそれぞれの店を構え、店員を使って、相応な生計を営んで行くのにその原料を提供する著作者が――少数の例外はあるにもせよ――食うや食わずにいる法はないと考えた。私が全くの著作生活に移ろうとしたのも、そのころからであった。
私の目にはまだ、六畳に二畳の二階が残っている。壁がある。障子がある。ごちゃごちゃとした町中の往来を隔てて、魚《さかな》を並べた肴屋《さかなや》の店がその障子の外に見おろされる。向かい隣には、白い障子のはまった下町《したまち》風の窓も見える。そこは私があの山の上から二度目に越して行った家の二階で、都会の空気も濃いところだ。かつみさん夫婦がか
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