若し、結婚するまでにも至っていない。すくなくも二人《ふたり》もしくは二人半の働き手を要するのが普通の農家である。それを思うと、いかに言っても太郎の家では手が足りなかった。私が妹に薄くしてもと考えるのは、その金で兄の手不足を補い、どうかしてあの新しい農家を独立させたかったからで。
 言い忘れたが、最初私は太郎に二|反《たん》七|畝《せ》ほどの田をあてがった。そこから十八俵の米が取れた。もっとも、太郎から手紙で書いてよこしたように、これは特別な農作の場合で、毎年の収穫の例にはならない。二度目は、一反九畝九|歩《ぶ》ほどの田をあてがった。そうそうは太郎一人の力にも及ぶまいから、このほうはあの子の村の友だちと二人の共同経営とした。地租、肥料、籾《もみ》などの代を差し引き、労力も二人で持ち寄れば、収穫も二人で分けさせることにしてあった。

 いつのまにか私たちの家の狭い庭には、薔薇《ばら》が最初の黄色い蕾《つぼみ》をつけた。馬酔木《あしび》もさかんな香気を放つようになった。この花が庭に咲くようになってから、私の部屋《へや》の障子の外へは毎日のように蜂《はち》が訪れて来た。
 あかるい光線が部屋の畳の上までさして来ているところで、私はいろいろと思い出してみた。六人ある姉妹《きょうだい》の中で、私の子供らの母《かあ》さんはその三番目にあたるが、まだそのほかにあの母さんの一番上の兄《にい》さんという人もあった。函館《はこだて》のお爺《じい》さんがこの七人の兄弟《きょうだい》の実父にあたる。お爺さんは一代のうちに蔵をいくつも建てたような手堅い商人であったが、総領の子息《むすこ》にはいちばん重きを置いたと見えて、長いことかかって自分で経営した網問屋《あみどんや》から、店の品物から、取引先の得意までつけてそっくり子息《むすこ》にくれた。ところが子息《むすこ》は、お爺《じい》さんからもらったものをすっかりなくしてしまった。あの子息《むすこ》の家が倒れて行くのを見た時は、お爺さんは半分狂気のようであったと言われている。しまいには、その家屋敷も人手に渡り、子息《むすこ》は勘当も同様になって、みじめな死を死んで行った。私はあのお爺《じい》さんが姉娘に迎えた養子の家のほうに移って、紙問屋の二階に暮らした時代を知っている。あのお爺さんが、子息《むすこ》の人手に渡した建物を二階の窓の外にながめながら、商人らしいあきらめをもって晩年を送っていたことを覚えている。
 この総領|子息《むすこ》に比べたら、三番目の妹娘なぞはいくらも分けてもらわない。あの子供らの母さんも、お爺《じい》さんのこころざしで一生着る物に不自由はしなかった。そればかりでなく、どうかするとお爺さんのこころざしは幼い時分の太郎や次郎や三郎のような孫の着る物にまで及んだ。しかし、あの母さんが金で分けてもらって来た話は聞かない。ただ一度、私の前に百円の金を出したことがある。私もまだ山の上のわびしい暮らしをしていた時代で、かなり骨の折れる日を送っていたところへ、今の青山の姪《めい》の父親にあたる私の兄貴《あにき》から、電報で百円の金の無心を受けた。当時兄貴は台湾《たいわん》のほうで、よくよく旅で困りもしたろうが、しかもそれが二度目の無心で、私としてはずいぶん無理な立場に立たせられた。その時、あの母さんが私の心配しているのを見るに見かねて、日ごろだいじにしていた金をそこへ取り出した。これはよくよく夫の困った場合でなければ出すなと言って、お爺《じい》さんがくれてよこしたものとかで、母さんが後にその話を私にしてみせたこともある。あの母さんは六人の姉妹《きょうだい》の中で、いちばんお爺《じい》さんの秘蔵娘であったという。その人ですらそうだ。ああいう場合を想《おも》ってみると、娘に薄くしても総領|子息《むすこ》に厚くとは、やはり函館のお爺さんなぞの考えたことであったらしい。あの母さんのように、困った夫の前へ、ありったけの金を取り出すような場合は別としても、もっと女の生活が経済的にも保障されていたなら、と今になって私も思い当たることがいろいろある。
「娘のしたくは、こんなことでいいのか。」
 私も、そこへ気づいた。やはり男の兄弟《きょうだい》に分けられるだけのものは、あの末子にも同じように分けようと思い直した。私も二万とまとまったものを持ったことのない証拠には、こんなに金のことを考えてしまった。やがて、一枚の小切手が約束の三十日より二日《ふつか》も早く私の手もとへ届いた。私はそれを適当に始末してしまうまでは安心しなかった。

「次郎ちゃん、きょうはお前と末ちゃんを下町《したまち》のほうへ連れて行く。自動車を一台頼んで来ておくれ。」
「とうさん、どこへ行くのさ。」
「まあ、とうさんについて来て見ればわかる。きょうはお前
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