をか仕出でてん。あまの子の浪の枕に袖しほれて、家を賣り、身を失ふためしも多かれど、老の身の行末をむさぶり米錢の中に魂を苦しめて物の情をわきまへざるには遙かにまして罪ゆるしぬべし。人生七十を稀なりとして、身の盛なることは僅かに二十餘年なり。初めの老の來れること一夜の夢のごとし、五十年六十年のよはひ傾くよりあさましうくづをれて、宵寢がちに朝起したる寢覺の分別、何事をか貪る。おろかなるものは思ふ事多し。煩悶増長して一藝のすぐるゝものは是非の勝るものなり。是をもて世の營みに宛て、貪欲の魔界に心を怒らし、溝洫に溺れて生かすこと能はずと南華老仙の唯利害を破却し、老若を忘れて閑にならんこそ老の樂みとは言ふべけれ、人來れば無用の辭あり、出でては他の家業をさまたぐるもうし。尊敬が戸を閉ぢて、杜五郎が門を鎖さんには、友なきを友とし、貧しきを富めりとして、五十年の頑夫自ら書き、自ら禁戒となす。』
 これを讀むと、中年の人の心持がさすがに隱されずにある。この文章の中には襲ひ來る『老』も書いてある。技藝の是非といふことも書いてある。沈默といふことも書いてある。貧しさの中に見つけた心の富といふことも書いてある。戀
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