あの『朝を思ひ、また夕を思ふべし』といふやうな心持から生れて來て居るからだとは思ふが、まだその他に自分の心をひく原因がある。近頃私は少年期から青年期へ移る頃にかけて受けた感動が深い影響を人の一生に及ぼすといふことに、よく思ひ當る。丁度さうした心の柔い、感じ易い年頃に、私は芭蕉の書いたものを愛讀した。その時に受けた感化が今だに私に續いて居る。どうかすると私は、少年時代に芭蕉を愛讀したと少しも變りのないやうな、それほど固定した印象を今日の自分に見つけることもある。
今から二十五六年ばかりも前に、私は近江から大和路の方へかけて旅したことがある。私はまだ極く若いさかりの年頃であつた。私は熱田から船で四日市へ渡り、龜山といふところに一晩泊つて、伊賀と近江の國境を歩いて越した。あれから琵琶湖の畔《ほとり》へ出、大津、瀬多、膳所なぞの町々を通つて西京から奈良へと通り、吉野路を旅した。私はもう一度琵琶湖の畔へ引返して石山の茶丈の一室に旅の足を休め、そこに一夏を送つたこともあつた。私は自分の郷里の木曾路の變遷を考へて見ても、何程若い時の自分の眼に映つた寂しい伊賀の山中や、吉野路の日あたりや、それから
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