丑松は其精神を酌取《くみと》つて、父の用意の深いことを感ずると同時に、又、一旦斯うと思ひ立つたことは飽くまで貫かずには置かないといふ父の気魄《たましひ》の烈しさを感じた。実際、父が丑松に対する時は、厳格を通り越して、残酷な位であつた。亡くなつた後までも、猶《なほ》丑松は父を畏《おそ》れたのである。
やがて丑松は叔父と一緒に、西乃入牧場を指して出掛けることになつた。万事は叔父の計らひで、検屍《けんし》も済み、棺も間に合ひ、通夜の僧は根津の定津院《じやうしんゐん》の長老を頼んで、既に番小屋の方へ登つて行つたとのこと。明日の葬式の用意は一切叔父が呑込んで居た。丑松は唯出掛けさへすればよかつた。此処から烏帽子《ゑぼし》ヶ|獄《だけ》の麓まで二十町あまり。其間、田沢の峠なぞを越して、寂しい山道を辿らなければならない。其晩は鼻を掴《つ》まゝれる程の闇で、足許《あしもと》さへも覚束なかつた。丑松は先に立つて、提灯の光に夜路を照らし乍ら、山深く叔父を導いて行つた。人里を離れて行けば行くほど、次第に路は細く、落ち朽ちた木葉を踏分けて僅かに一条《ひとすぢ》の足跡があるばかり。こゝは丑松が少年の時代に、克《よ》く父に連れられて、往つたり来たりしたところである。牛小屋のある高原の上へ出る前に、二人はいくつか小山を越えた。
(五)
谷を下ると其処がもう番小屋で、人々は狭い部屋の内に集つて居た。灯は明々《あか/\》と壁を泄《も》れ、木魚《もくぎよ》の音も山の空気に響き渡つて、流れ下る細谷川の私語《さゝやき》に交つて、一層の寂しさあはれさを添へる。家の構造《つくり》は、唯|雨露《あめつゆ》を凌ぐといふばかりに、葺《ふ》きもし囲ひもしてある一軒屋。たまさか殿城山の間道を越えて鹿沢《かざは》温泉へ通ふ旅人が立寄るより外には、訪《と》ふ人も絶えて無いやうな世離れたところ。炭焼、山番、それから斯の牛飼の生活――いづれも荒くれた山住の光景《ありさま》である。丑松は提灯《ちやうちん》を吹消して、叔父と一緒に小屋の戸を開けて入つた。
定津院の長老、世話人と言つて姫子沢の組合、其他父が生前懇意にした農家の男女《をとこをんな》――それらの人々から丑松は親切な弔辞《くやみ》を受けた。仏前の燈明は線香の烟《けぶり》に交る夜の空気を照らして、何となく部屋の内も混雑して居るやうに見える。父の遺骸《なきがら》を納めたといふは、極《ご》く粗末な棺。其|周囲《まはり》を白い布で巻いて、前には新しい位牌《ゐはい》を置き、水、団子、外には菊、樒《しきみ》の緑葉《みどりば》なぞを供へてあつた。読経も一きりになつた頃、僧の注意で、年老いた牧夫の見納めの為に、かはる/″\棺の前に立つた。死別の泪《なみだ》は人々の顔を流れたのである。丑松も叔父に導かれ、すこし腰を曲《こゞ》め、薄暗い蝋燭《らふそく》の灯影に是世の最後の別離《わかれ》を告げた。見れば父は孤独な牧夫の生涯を終つて、牧場の土深く横はる時を待つかのやう。死顔は冷かに蒼《あをざ》めて、血の色も無く変りはてた。叔父は例の昔気質《むかしかたぎ》から、他界《あのよ》の旅の便りにもと、編笠、草鞋《わらぢ》、竹の輪なぞを取添へ、別に魔除《まよけ》と言つて、刃物を棺の蓋の上に載せた。軈《やが》て復《ま》た読経《どきやう》が始まる、木魚の音が起る、追懐の雑談は無邪気な笑声に交つて、物食ふ音と一緒になつて、哀しくもあり、騒がしくもあり、人々に妨げられて丑松は旅の疲労《つかれ》を休めることも出来なかつた。
一夜は斯ういふ風に語り明した。小諸の向町へは通知して呉れるなといふ遺言もあるし、それに移住《ひつこし》以来《このかた》十七年あまりも打絶えて了つたし、是方《こちら》からも知らせてやらなければ、向ふからも来なかつた。昔の『お頭』が亡くなつたと聞伝へて、下手なものにやつて来られては反つて迷惑すると、叔父は唯そればかり心配して居た。斯の叔父に言はせると、墓を牧場に択んだのは、かねて父が考へて居たことで。といふは、もし根津の寺なぞへ持込んで、普通の農家の葬式で通ればよし、さも無かつた日には、断然|謝絶《ことわ》られるやうな浅猿《あさま》しい目に逢ふから。習慣の哀しさには、穢多は普通の墓地に葬る権利が無いとしてある。父は克く其を承知して居た。父は生前も子の為に斯ういふ山奥に辛抱して居た。死後もまた子の為に斯の牧場に眠るのを本望としたのである。
『どうかして斯の「おじやんぼん」(葬式)は無事に済ましたい――なあ、丑松、俺はこれでも気が気ぢやねえぞよ。』
斯ういふ心配は叔父ばかりでは無かつた。
翌日《あくるひ》の午後は、会葬の男女《をとこをんな》が番小屋の内外《うちそと》に集つた。牧場の持主を始め、日頃牝牛を預けて置く牛乳屋なぞも、其と聞伝へたかぎりは弔ひにやつて来た。父の墓地は岡の上の小松の側《わき》と定まつて、軈《やが》ていよいよ野辺送りを為ることになつた時は、住み慣れた小屋の軒を舁《かつ》がれて出た。棺の後には定津院の長老、つゞいて腕白顔な二人の子坊主、丑松は叔父と一緒に藁草履穿《わらざうりばき》、女はいづれも白の綿帽子を冠つた。人々は思ひ/\の風俗、紋付もあれば手織縞《ておりじま》の羽織もあり、山家の習ひとして多くは袴も着けなかつた。斯の飾りの無い一行の光景《ありさま》は、素朴な牛飼の生涯に克《よ》く似合つて居たので、順序も無く、礼儀も無く、唯|真心《まごゝろ》こもる情一つに送られて、静かに山を越えた。
式も亦《ま》た簡短であつた。単調子な鉦《かね》、太鼓、鐃※[#「金+祓のつくり」、第3水準1−93−6]《ねうはち》の音、回想《おもひで》の多い耳には其も悲哀な音楽と聞え、器械的な回向と読経との声、悲嘆《なげき》のある胸には其もあはれの深い挽歌《ばんか》のやうに響いた。礼拝《らいはい》し、合掌し、焼香して、軈て帰つて行く人々も多かつた。棺は間もなく墓と定めた場処へ移されたので、そこには掘起された『のつぺい』(土の名)が堆高《うづたか》く盛上げられ、咲残る野菊の花も土足に踏散らされてあつた。人々は土を掴《つか》んで、穴をめがけて投入れる。叔父も丑松も一塊《ひとかたまり》づゝ投入れた。最後に鍬《くは》で掻落した時は、崖崩れのやうな音して烈しく棺の蓋を打つ。それさへあるに、土気の襄上《のぼ》る臭気《にほひ》は紛《ぷん》と鼻を衝《つ》いて、堪へ難い思をさせるのであつた。次第に葬られて、小山の形の土饅頭が其処に出来上るまで、丑松は考深く眺め入つた。叔父も無言であつた。あゝ、父は丑松の為に『忘れるな』の一語《ひとこと》を残して置いて、最後の呼吸にまで其精神を言ひ伝へて、斯うして牧場の土深く埋もれて了つた――もう斯世《このよ》の人では無かつたのである。
(六)
兎《と》も角《かく》も葬式は無事に済《す》んだ。後の事は牧場の持主に頼み、番小屋は手伝ひの男に預けて、一同姫子沢へ引取ることになつた。斯《こ》の小屋に飼養《かひやしな》はれて居る一匹の黒猫、それも父の形見であるからと、しきりに丑松は連帰らうとして見たが、住慣《すみな》れた場処に就く家畜の習ひとして、離れて行くことを好まない。物を呉れても食はず、呼んでも姿を見せず、唯縁の下をあちこちと鳴き悲む声のあはれさ。畜生|乍《なが》らに、亡くなつた主人を慕ふかと、人々も憐んで、是《これ》から雪の降る時節にでも成らうものなら何を食つて山籠りする、と各自《てんで》に言ひ合つた。『可愛さうに、山猫にでも成るだらず。』斯う叔父は言つたのである。
やがて人々は思ひ/\に出掛けた。番小屋を預かる男は塩を持つて、岡の上まで見送り乍ら随《つ》いて来た。十一月上旬の日の光は淋しく照して、この西乃入牧場に一層|荒寥《くわうれう》とした風趣《おもむき》を添へる。見れば小松はところ/″\。山躑躅《やまつゝじ》は、多くの草木の中に、牛の食はないものとして、反《かへ》つて一面に繁茂して居るのであるが、それも今は霜枯れて見る影が無い。何もかも父の死を冥想させる種と成る。愁《うれ》ひつゝ丑松は小山の間の細道を歩いた。父を斯《こ》の牧場に訪れたは、丁度足掛三年前の五月の下旬であつたことを思出した。それは牛の角の癢《かゆ》くなるといふ頃で、斯の枯々な山躑躅が黄や赤に咲乱れて居たことを思出した。そここゝに蕨《わらび》を采《と》る子供の群を思出した。山鳩の啼《な》く声を思出した。其時は心地《こゝろもち》の好い微風《そよかぜ》が鈴蘭(君影草とも、谷間の姫百合とも)の花を渡つて、初夏の空気を匂はせたことを思出した。父は又、岡の上の新緑を指して見せて、斯の西乃入には柴草が多いから牛の為に好いと言つたことを思出した。其青葉を食ひ、塩を嘗《な》め、谷川の水を飲めば、牛の病は多く癒《なほ》ると言つたことを思出した。父はまた附和《つけた》して、さま/″\な牧畜の経験、類を以て集る牛の性質、初めて仲間入する時の角押しの試験、畜生とは言ひ乍ら仲間同志を制裁する力、其他女王のやうに牧場を支配する一頭の牝牛なぞの物語をして、それがいかにも面白く思はれたことを思出した。
父は斯《こ》の烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の麓に隠れたが、功名を夢見る心は一生火のやうに燃えた人であつた。そこは無欲な叔父と大に違ふところで、その制《おさ》へきれないやうな烈しい性質の為に、世に立つて働くことが出来ないやうな身分なら、寧《いつ》そ山奥へ高踏《ひつこ》め、といふ憤慨の絶える時が無かつた。自分で思ふやうに成らない、だから、せめて子孫は思ふやうにしてやりたい。自分が夢見ることは、何卒《どうか》子孫に行はせたい。よしや日は西から出て東へ入る時があらうとも、斯《この》志ばかりは堅く執《と》つて変るな。行け、戦へ、身を立てよ――父の精神はそこに在つた。今は丑松も父の孤独な生涯を追懐して、彼《あ》の遺言に籠る希望と熱情とを一層力強く感ずるやうに成つた。忘れるなといふ一生の教訓《をしへ》の其|生命《いのち》――喘《あへ》ぐやうな男性《をとこ》の霊魂《たましひ》の其呼吸――子の胸に流れ伝はる親の其血潮――それは父の亡くなつたと一緒にいよ/\深い震動を丑松の心に与へた。あゝ、死は無言である。しかし丑松の今の身に取つては、千百の言葉を聞くよりも、一層《もつと》深く自分の一生のことを考へさせるのであつた。
牛小屋のあるところまで行くと、父の残した事業が丑松の眼に映じた。一週《ひとまはり》すれば二里半にあまるといふ天然の大牧場、そここゝの小松の傍《わき》には臥《ね》たり起きたりして居る牝牛の群も見える。牛小屋は高原の東の隅に在つて、粗造《そまつ》な柵の内には未《ま》だ角の無い犢《こうし》も幾頭か飼つてあつた。例の番小屋を預かる男は人々を款待顔《もてなしがほ》に、枯草を焚いて、猶《なほ》さま/″\の燃料《たきつけ》を掻集めて呉れる。丁度そこには叔父も丑松も待合せて居た。男も、女も、斯の焚火の周囲《まはり》に集つたかぎりは、昨夜一晩寝なかつた人々、かてゝ加へて今日の骨折――中にはもう烈しい疲労《つかれ》が出て、半分眠り乍ら落葉の焼ける香を嗅いで居るものもあつた。叔父は、牛の群に振舞ふと言つて、あちこちの石の上に二合ばかりの塩を分けてやる。父の飼ひ慣れたものかと思へば、丑松も可懐《なつか》しいやうな気になつて眺《なが》めた。それと見た一頭の黒い牝牛は尻毛を動かして、塩の方へ近《ちかづ》いて来る。眉間《みけん》と下腹と白くて、他はすべて茶褐色な一頭も耳を振つて近いた。吽《もう》と鳴いて犢《こうし》の斑《ぶち》も。さすがに見慣れない人々を憚るかして、いづれも鼻をうごめかして、塩の周囲《まはり》を遠廻りするものばかり。嘗《な》めたさは嘗めたし、烏散《うさん》な奴は見て居るし、といふ顔付をして、じり/\寄りに寄つて来るのもあつた。
斯の光景《ありさま》を見た時は、叔父も笑へば、丑松も笑つた。斯ういふ可愛らしい相手があればこそ、寂しい山奥に住まはれもするのだと、人々も一緒にな
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