川君は非常に沈んで居ますねえ。』
『左様《さやう》さ――』と奥様は小首を傾《かし》げる。
『一昨々日《さきをとゝひ》、』と銀之助は丑松の方を見て、『君が斯のお寺へ部屋を捜しに来た日だ――ホラ、僕が散歩してると、丁度本町で君に遭遇《でつくは》したらう。彼時《あのとき》の君の考へ込んで居る様子と言つたら――僕は暫時《しばらく》そこに突立つて、君の後姿を見送つて、何とも言ひ様の無い心地《こゝろもち》がしたねえ。君は猪子先生の「懴悔録」を持つて居た。其時僕は左様《さう》思つた。あゝ、また彼《あ》の先生の書いたものなぞを読んで、神経を痛めなければ可《いゝ》がなあと。彼様《あゝ》いふ本を読むのは、君、可くないよ。』
『何故?』と丑松は身を起した。
『だつて、君、あまり感化を受けるのは可くないからサ。』
『感化を受けたつても可いぢやないか。』
『そりやあ好い感化なら可いけれども、悪い感化だから困る。見たまへ、君の性質が変つて来たのは、彼の先生のものを読み出してからだ。猪子先生は穢多だから、彼様《あゝ》いふ風に考へるのも無理は無い。普通の人間に生れたものが、なにも彼《あ》の真似を為なくてもよからう――
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