奥様に言はせると、今の住職が敬之進の為に尽したことは一通りで無い。あの酒を断つたらば、とは克《よ》く住職の言ふことで、禁酒の証文を入れる迄に敬之進が後悔する時はあつても、また/\縒《より》が元へ戻つて了ふ。飲めば窮《こま》るといふことは知りつゝ、どうしても持つた病には勝てないらしい。その為に敷居が高くなつて、今では寺へも来られないやうな仕末。あの不幸《ふしあはせ》な父親の為には、どんなにかお志保も泣いて居るとのことであつた。
『左様《さう》ですか――いよ/\退職になりましたか。』
 斯う言つて奥様は嘆息した。
『道理で。』と丑松は思出したやうに、『昨日私が是方《こちら》へ引越して来る時に、風間さんは門の前まで随いて来ましたよ。何故斯うして門の前まで一緒に来たか、それは今説明しようとも思はない、なんて、左様《さう》言つて、それからぷいと別れて行つて了ひました。随分酔つて居ましたツけ。』
『へえ、吾寺《うち》の前まで? 酔つて居ても娘のことは忘れないんでせうねえ――まあ、それが親子の情ですから。』
 と奥様は復《ま》た深い溜息を吐《つ》いた。
 斯ういふ談話《はなし》に妨《さまた》げられ
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