、一緒に東京の方へ帰つて呉れと言出したが、蓮太郎は聞入れなかつた。もと/\友人や後進のものを先にして、家のものを後にするのが蓮太郎の主義で、今度信州に踏留まるといふのも、畢竟《つまり》は弁護士の為に尽したいから。其は細君も万々承知。夫の気象として、左様《さう》いふのは無理もない。しかし斯の山の上で、夫の病気が重りでもしたら。斯ういふ心配は深く細君の顔色に表はれる。『奥様《おくさん》、其様《そんな》に御心配無く――猪子君は私が御預りしましたから。』と弁護士が引受顔なので、細君も強ひてとは言へなかつた。
 先輩が可懐《なつか》しければ其細君までも可懐しい。斯う思ふ丑松の情は一層深くなつた。始めて汽車の中で出逢《であ》つた時からして、何となく人格の奥床《おくゆか》しい細君とは思つたが、さて打解けて話して見ると、別に御世辞が有るでも無く、左様《さう》かと言つて可厭《いや》に澄まして居るといふ風でも無い――まあ、極《ご》く淡泊《さつぱり》とした、物に拘泥《こうでい》しない気象の女と知れた。風俗《なりふり》なぞには関《かま》はない人で、是《これ》から汽車に乗るといふのに、其程《それほど》身のまはり
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