主は鉛筆を舐《な》めて、其を手帳へ書留めた。
 やがて其日の立会も済み、持主にも別れを告げ、人々と一緒に斯の屠牛場から引取らうとした時、もう一度丑松は小屋の方を振返つて見た。屠手のあるものは残物の臓腑を取片付ける、あるものは手桶《てをけ》に足を突込んで牛の血潮を洗ひ落す、種牛の片股は未《ま》だ釣るされた儘で、黄な膏《あぶら》と白い脂肪とが日の光を帯びて居た。其時は最早あの可傷《いたま》しい回想《おもひで》の断片といふ感想《かんじ》も起らなかつた。唯大きな牛肉の塊としか見えなかつた。


   第拾壱章

       (一)

『先《ま》づ好かつた。』と叔父は屠牛場の門を出た時、丑松の肩を叩《たゝ》いて言つた。『先づまあ、是《これ》で御関所は通り越した。』
『あゝ、叔父さんは声が高い。』と制するやうにして、丑松は何か思出したやうに、先へ行く蓮太郎と弁護士との後姿を眺《なが》めた。
『声が高い?』叔父は笑ひ乍ら、『ふゝ、俺のやうな皺枯声《しやがれごゑ》が誰に聞えるものかよ。それは左様《さう》と、丑松、へえ最早《もう》是で安心だ。是処《こゝ》まで漕付《こぎつ》ければ、最早大丈夫だ。どのくれ
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