十何ヶ寺の一つ、真宗に附属する古刹《こせつ》で、丁度其二階の窓に倚凭《よりかゝ》つて眺めると、銀杏《いてふ》の大木を経《へだ》てゝ飯山の町の一部分も見える。さすが信州第一の仏教の地、古代を眼前《めのまへ》に見るやうな小都会、奇異な北国風の屋造《やづくり》、板葺の屋根、または冬期の雪除《ゆきよけ》として使用する特別の軒庇《のきびさし》から、ところ/″\に高く顕《あらは》れた寺院と樹木の梢まで――すべて旧めかしい町の光景《ありさま》が香の烟《けぶり》の中に包まれて見える。たゞ一際《ひときは》目立つて此窓から望まれるものと言へば、現に丑松が奉職して居る其小学校の白く塗つた建築物《たてもの》であつた。
 丑松が転宿《やどがへ》を思ひ立つたのは、実は甚だ不快に感ずることが今の下宿に起つたからで、尤《もつと》も賄《まかなひ》でも安くなければ、誰も斯様《こん》な部屋に満足するものは無からう。壁は壁紙で張りつめて、それが煤《すゝ》けて茶色になつて居た。粗造な床の間、紙表具の軸、外には古びた火鉢が置いてあるばかりで、何となく世離れた、静寂《しづか》な僧坊であつた。それがまた小学教師といふ丑松の今の境遇に
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