無い。一人の農夫が草鞋穿《わらぢばき》の儘《まゝ》、ぐいと『てツぱ』(こつぷ酒)を引掛けて居たが、軈《やが》て其男の姿も見えなくなつて、炉辺《ろばた》は唯二人の専有《もの》となつた。
『今晩は何にいたしやせう。』と主婦《かみさん》は炉の鍵に大鍋を懸け乍ら尋ねた。『油汁《けんちん》なら出来やすが、其ぢやいけやせんか。河で捕れた鰍《かじか》もごはす。鰍でも上げやせうかなあ。』
『鰍?』と敬之進は舌なめずりして、『鰍、結構――それに、油汁と来ては堪《こた》へられない。斯ういふ晩は暖い物に限りますからね。』
 敬之進は酒慾の為に慄へて居た。素面《しらふ》で居る時は、からもう元気の無い人で、言葉もすくなく、病人のやうに見える。五十の上を一つか二つも越したらうか、年の割合には老《ふけ》たといふでも無く、まだ髪は黒かつた。丑松は『藁によ』の蔭で見たり聞いたりした家族のことを思ひ浮べて、一層|斯人《このひと》に親しくなつたやうな心地がした。『ぼや』の火も盛んに燃えた。大鍋の中の油汁《けんちん》は沸々《ふつ/\》と煮立つて来て、甘さうな香《にほひ》が炉辺に満溢《みちあふ》れる。主婦《かみさん》は其を小丼《こどんぶり》に盛つて出し、酒は熱燗《あつかん》にして、一本づゝ古風な徳利を二人の膳の上に置いた。
『瀬川君。』と敬之進は手酌でちびり/\始め乍ら、『君が飯山へ来たのは何時でしたつけねえ。』
『私《わたし》ですか。私が来てから最早《もう》足掛三年に成ります。』と丑松は答へた。
『へえ、其様《そんな》に成るかねえ。つい此頃《こなひだ》のやうにしか思はれないがなあ。実に月日の経つのは早いものさ。いや、我輩なぞが老込む筈だよ。君等がずん/\進歩するんだもの。我輩だつて、君、一度は君等のやうな時代もあつたよ。明日は、明日は、明日はと思つて居る内に、もう五十といふ声を聞くやうに成つた。我輩の家《うち》と言ふのはね、もと飯山の藩士で、少年の時分から君侯の御側に勤めて、それから江戸表へ――丁度|御維新《ごいツしん》に成る迄。考へて見れば時勢は還《うつ》り変つたものさねえ。変遷、変遷――見たまへ、千曲川の岸にある城跡を。彼《あ》の名残の石垣が君等の目にはどう見えるね。斯う蔦《つた》や苺《いちご》などの纏絡《まとひつ》いたところを見ると、我輩はもう言ふに言はれないやうな心地《こゝろもち》になる。何処の城跡へ行つても、大抵は桑畠《くはばたけ》。士族といふ士族は皆な零落して了つた。今日迄|踏堪《ふみこた》へて、どうにかかうにか遣つて来たものは、と言へば、役場へ出るとか、学校へ勤めるとか、それ位のものさ。まあ、士族ほど役に立たないものは無い――実は我輩も其一人だがね。はゝゝゝゝ。』
 と敬之進は寂しさうに笑つた。やがて盃の酒を飲乾して、一寸舌打ちして、それを丑松へ差し乍ら、
『一つ交換といふことに願ひませうか。』
『まあ、御酌《おしやく》しませう。』と丑松は徳利を持添へて勧めた。
『それは不可《いかん》。上げるものは上げる、頂くものは頂くサ。え――君は斯の方は遣《や》らないのかと思つたが、なか/\いけますねえ。君の御手並を拝見するのは今夜始めてだ。』
『なに、私のは三盃上戸《さんばいじやうご》といふ奴なんです。』
『兎《と》に角《かく》、斯盃は差上げます。それから君のを頂きませう。まあ君だから斯様《こん》なことを御話するんだが、我輩なぞは二十年も――左様《さやう》さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終《しまひ》には教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴《はおりはかま》で、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様《さう》ぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少《わづか》の月給で、長い時間を働いて、克《よ》くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今|茲《こゝ》で我輩が退職するのは智慧《ちゑ》の無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月|踏堪《ふみこた》へさへすれば、仮令《たとへ》僅少《わづか》でも恩給の下《さが》る位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後《さき》我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員を休《や》めて了《しま》つたら、奈何《どう》して活計《くらし》が立つ、銀行へ
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