すツと》だぞい――ちよツ、何処へでも勝手に行つて了へ、其様《そん》な根性《こんじやう》の奴は最早《もう》母さんの子ぢやねえから。』
 斯う言つて、袋の中に残る冷《つめた》い焼餅《おやき》らしいものを取出して、細君は三人の児に分けて呉れた。
『母さん、俺《おん》にも。』とお作は手を出した。
『何だ、お前は。自分で取つて食つて置き乍ら。』
『母さん、もう一つお呉《くん》な。』と省吾は訴へるやうに、『進には二つ呉れて、私《わし》には一つしか呉ねえだもの。』
『お前は兄さんぢやねえか。』
『進には彼様《あん》な大いのを呉れて。』
『嫌なら、廃《よ》しな、さあ返しな――機嫌|克《よ》くして母さんの呉れるものを貰つた例《ためし》はねえ。』
 進は一つ頬張り乍ら、軈《やが》て一つの焼餅《おやき》を見せびらかすやうにして、『省吾の馬鹿――やい、やい。』と呼んだ。省吾は忌々敷《いま/\しい》といふ様子。いきなり駈寄つて、弟の頭を握拳《にぎりこぶし》で打つ。弟も利かない気。兄の耳の辺《あたり》を打ち返した。二人の兄弟は怒の為に身を忘れて、互に肩を聳して、丁度|野獣《けもの》のやうに格闘《あらそひ》を始める。音作の女房が周章《あわ》てゝ二人を引分けた時は、兄弟ともに大な声を揚げて泣叫ぶのであつた。
『どうしてまあ兄弟喧嘩《きやうだいげんくわ》を為るんだねえ。』と細君は怒つて、『左様《さう》お前達に側《はた》で騒がれると、母さんは最早《もう》気が狂《ちが》ひさうに成る。』
 斯の光景《ありさま》を丑松は『藁によ』の蔭に隠れ乍ら見て居た。様子を聞けば聞くほど不幸な家族を憐まずには居られなくなる。急に暮鐘の音に驚かされて、丑松は其処を離れた。
 寂しい秋晩の空に響いて、また蓮華寺の鐘の音が起つた。それは多くの農夫の為に、一日の疲労《つかれ》を犒《ねぎら》ふやうにも、楽しい休息《やすみ》を促《うなが》すやうにも聞える。まだ野に残つて働いて居る人々は、いづれも仕事を急ぎ初めた。今は夕靄《ゆふもや》の群が千曲川《ちくまがは》の対岸を籠《こ》めて、高社山《かうしやざん》一帯の山脈も暗く沈んだ。西の空は急に深い焦茶《こげちや》色に変つたかと思ふと、やがて落ちて行く秋の日が最後の反射を田《た》の面《も》に投げた。向ふに見える杜《もり》も、村落も、遠く暮色に包まれて了つたのである。あゝ、何の煩ひも思ひ傷むことも無くて、斯《か》ういふ田園の景色を賞することが出来たなら、どんなにか青春の時代も楽しいものであらう。丑松が胸の中に戦ふ懊悩《あうなう》を感ずれば感ずる程、余計に他界《そと》の自然は活々《いき/\》として、身に染《し》みるやうに思はるゝ。南の空には星一つ顕《あらは》れた。その青々とした美しい姿は、一層夕暮の眺望を森厳《おごそか》にして見せる。丑松は眺め入り乍ら、自分の一生を考へて歩いた。
『しかし、其が奈何《どう》した。』と丑松は豆畠の間の細道へさしかゝつた時、自分で自分を激※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》ますやうに言つた。『自分だつて社会の一員《ひとり》だ。自分だつて他《ひと》と同じやうに生きて居る権利があるのだ。』
 斯の思想《かんがへ》に力を得て、軈て帰りかけて振返つて見た時は、まだ敬之進の家族が働いて居た。二人の女が冠つた手拭は夕闇に仄白《ほのじろ》く、槌の音は冷々《ひや/″\》とした空気に響いて、『藁を集めろ』などゝいふ声も幽《かすか》に聞える。立つて是方《こちら》を向いたのは省吾か。今は唯動いて居る暗い影かとばかり、人々の顔も姿も判らない程に暮れた。

       (四)

『おつかれ』(今晩は)と逢《あ》ふ人毎に声を掛けるのは山家の黄昏《たそがれ》の習慣《ならはし》である。丁度新町の町はづれへ出て、帰つて行く農夫に出逢ふ度に、丑松は斯《この》挨拶を交換《とりかは》した。一ぜんめし、御休所、笹屋、としてある家《うち》の前で、また『おつかれ』を繰返したが、其は他の人でもない、例の敬之進であつた。
『おゝ、瀬川君か。』と敬之進は丑松を押留めるやうにして、『好い処で逢つた。何時か一度君とゆつくり話したいと思つて居た。まあ、左様《さう》急がんでもよからう。今夜は我輩に交際《つきあ》つて呉れてもよからう。斯ういふ処で話すのも亦《ま》た一興だ。是非、君に聞いて貰ひたいこともあるんだから――』
 斯《か》う慫慂《そゝのか》されて、丑松は敬之進と一緒に笹屋の入口の敷居を跨いで入つた。昼は行商、夜は農夫などが疲労《つかれ》を忘れるのは茲《こゝ》で、大な炉《ろ》には『ぼや』(雑木の枝)の火が赤々と燃上つた。壁に寄せて古甕《ふるがめ》のいくつか並べてあるは、地酒が溢れて居るのであらう。今は農家は忙しい時季《とき》で、長く御輿《みこし》を座《す》ゑるものも
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