来るやうに成つた。眼前《めのまへ》に展《ひろが》る郊外の景色を眺めると、種々《さま/″\》の追憶《おもひで》は丑松の胸の中を往つたり来たりする。丁度斯うして、田圃《たんぼ》の側《わき》に寝そべり乍ら、収穫《とりいれ》の光景《さま》を眺めた彼《あ》の無邪気な少年の時代を憶出《おもひだ》した。烏帽子《ゑぼし》一帯の山脈の傾斜を憶出した。其傾斜に連なる田畠と石垣とを憶出した。茅萱《ちがや》、野菊、其他種々な雑草が霜葉を垂れる畦道《あぜみち》を憶出した。秋風が田の面を渡つて黄な波を揚げる頃は、※[#「阜」の「十」に代えて「虫」、第4水準2−87−44]螽《いなご》を捕つたり、野鼠を追出したりして、夜はまた炉辺《ろばた》で狐と狢《むじな》が人を化かした話、山家で言ひはやす幽霊の伝説、放縦《ほしいまゝ》な農夫の男女《をとこをんな》の物語なぞを聞いて、余念もなく笑ひ興じたことを憶出《おもひだ》した。あゝ、穢多の子といふ辛い自覚の味を知らなかつた頃――思へば一昔――其頃と今とは全く世を隔てたかの心地がする。丑松はまた、あの長野の師範校で勉強した時代のことを憶出した。未だ世の中を知らなかつたところからして、疑ひもせず、疑はれもせず、他《ひと》と自分とを同じやうに考へて、笑つたり騒いだりしたことを憶出した。あの寄宿舎の楽しい窓を憶出した。舎監の赤い髭を憶出した。食堂の麦飯の香《にほひ》を憶出した。よく阿弥陀《あみだ》の※[#「鬥<亀」、第3水準1−94−30]《くじ》に当つて、買ひに行つた門前の菓子屋の婆さんの顔を憶出した。夜の休息《やすみ》を知らせる鐘が鳴り渡つて、軈《やが》て見廻りに来る舎監の靴の音が遠く廊下に響くといふ頃は、沈まりかへつて居た朋輩が復《ま》た起出して、暗い寝室の内で雑談に耽つたことを憶出した。終《しまひ》には往生寺の山の上に登つて、苅萱《かるかや》の墓の畔《ほとり》に立ち乍ら、大《おほき》な声を出して呼び叫んだ時代のことを憶出して見ると――実に一生の光景《ありさま》は変りはてた。楽しい過去の追憶《おもひで》は今の悲傷《かなしみ》を二重にして感じさせる。『あゝ、あゝ、奈何《どう》して俺は斯様《こんな》に猜疑深《うたがひぶか》くなつたらう。』斯う天を仰いで歎息した。急に、意外なところに起る綿のやうな雲を見つけて、しばらく丑松はそれを眺め乍ら考へて居たが、思はず知らず疲労《つかれ》が出て、『藁によ』に倚凭《よりかゝ》つたまゝ寝て了つた。
(三)
ふと眼を覚まして四辺《そこいら》を見廻した時は、暮色が最早《もう》迫つて来た。向ふの田の中の畦道《あぜみち》を帰つて行く人々も見える。荒くれた男女の農夫は幾群か丑松の側《わき》を通り抜けた。鍬《くは》を担いで行くものもあり、俵を背負つて行くものもあり、中には乳呑児《ちのみご》を抱擁《だきかゝ》へ乍ら足早に家路をさして急ぐのもあつた。秋の一日《ひとひ》の烈しい労働は漸《やうや》く終を告げたのである。
まだ働いて居るものもあつた。敬之進の家族も急いで働いて居た。音作は腰を曲《こゞ》め、足に力を入れ、重い俵《たはら》を家の方へ運んで行く。後には女二人と省吾ばかり残つて、籾《もみ》を振《ふる》つたり、それを俵へ詰めたりして居た。急に『かあさん、かあさん。』と呼ぶ声が起る。見れば省吾の弟、泣いて反返《そりかへ》る児を背負《おぶ》ひ乍ら、一人の妹を連れて母親の方へ駈寄つた。『おゝ、おゝ。』と細君は抱取つて、乳房を出して銜《くは》へさせて、
『進や。父さんは何してるか、お前《めへ》知らねえかや。』
『俺《おら》知んねえよ。』
『あゝ。』と細君は襦袢《じゆばん》の袖口で※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》を押拭ふやうに見えた。『父さんのことを考へると、働く気もなにも失くなつて了ふ――』
『母さん、作ちやんが。』と進は妹の方を指差し乍ら叫んだ。
『あれ。』と細君は振返つて、『誰だい其袋を開けたものは――誰だい母さんに黙つて其袋を開けたものは。』
『作ちやんは取つて食ひやした。』と進の声で。
『真実《ほんと》に仕方が無いぞい――彼娘《あのこ》は。』と細君は怒気を含んで、『其袋を茲《こゝ》へ持つて来な――これ、早く持つて来ねえかよ。』
お作は八歳《やつつ》ばかりの女の児。麻の袋を手に提げた儘、母の権幕を畏《おそ》れて進みかねる。『母さん、お呉《くん》な。』と進も他の子供も強請《せが》み付く。省吾も其と見て、母の傍へ駈寄つた。細君はお作の手から袋を奪取るやうにして、
『どれ、見せな――そいつたツても、まあ、情ない。道理で先刻《さつき》から穏順《おとな》しいと思つた。すこし母さんが見て居ないと、直に斯様《こん》な真似を為る。黙つて取つて食ふやうなものは、泥棒だぞい――盗人《ぬ
前へ
次へ
全122ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング