出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様《そん》な真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆《すつかり》もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆《たふ》れるまで鞭撻《むちう》たれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。』

       (五)

 急に入つて来た少年に妨げられて、敬之進は口を噤《つぐ》んだ。流許《ながしもと》に主婦《かみさん》、暗い洋燈《ランプ》の下で、かちや/\と皿小鉢を鳴らして居たが、其と見て少年の側へ駈寄つた。
『あれ、省吾さんでやすかい。』
 と言はれて、省吾は用事ありげな顔付。
『吾家《うち》の父さんは居りやすか。』
『あゝ居なさりやすよ。』と主婦は答へた。
 敬之進は顔を渋《しか》めた。入口の庭の薄暗いところに佇立《たゝず》んで居る省吾を炉辺《ろばた》まで連れて来て、つく/″\其可憐な様子を眺《なが》め乍《なが》ら、
『奈何《どう》した――何か用か。』
『あの、』と省吾は言淀《いひよど》んで、『母さんがねえ、今夜は早く父さんに御帰りなさいツて。』
『むゝ、また呼びによこしたのか――ちよツ、極《きま》りを遣《や》つてら。』と敬之進は独語《ひとりごと》のやうに言つた。
『そんなら父さんは帰りなさらないんですか。』と省吾はおづ/\尋ねて見る。
『帰るサ――御話が済《す》めば帰るサ。母さんに斯う言へ、父さんは学校の先生と御話して居ますから、其が済めば帰りますツて。』と言つて、敬之進は一段声を低くして、『省吾、母さんは今何してる?』
『籾《もみ》を片付けて居りやす。』
『左様《さう》か、まだ働いてるか。それから彼《あ》の……何か……母さんはまた例《いつも》のやうに怒つてやしなかつたか。』
 省吾は答へなかつた。子供心にも、父を憐むといふ目付して、黙つて敬之進の顔を熟視《みまも》つたのである。
『まあ、冷《つめた》さうな手をしてるぢやないか。』と敬之進は省吾の手を握つて、『それ金銭《おあし》を呉れる。柿でも買へ。母さんや進には内証だぞ。さあ最早《もう》それで可《いゝ》から、早く帰つて――父さんが今言つた通りに――よしか。解つたか。』
 省吾は首を垂れて、萎《しを》れ乍ら出て行つた。
『まあ聞いて呉れたまへ。』と敬之進は復《ま》た述懐を始めた。『ホラ、君が彼の蓮華寺へ引越す時、我輩も門前まで行きましたらう――実は、君だから斯様《こん》なこと迄も御話するんだが、彼寺には不義理なことがしてあつて、住職は非常に怒つて居る。我輩が飲む間は、交際《つきあ》はぬといふ。情ないとは思ふけれど、其様《そん》な関係で、今では娘の顔を見に行くことも出来ないやうな仕末。まあ、彼寺へ呉れて了つたお志保と、省吾と、それから亡くなつた総領と、斯う三人は今の家内の子では無いのさ。前《せん》の家内といふのは、矢張《やはり》飯山の藩士の娘でね、我輩の家《うち》の楽な時代に嫁《かたづ》いて来て、未だ今のやうに零落しない内に亡《な》くなつた。だから我輩は彼女《あいつ》のことを考へる度に、一生のうちで一番楽しかつた時代を思出さずには居られない。一盃《いつぱい》やると、きつと其時代のことを思出すのが我輩の癖で――だつて君、年を取れば、思出すより外に歓楽《たのしみ》が無いのだもの。あゝ、前《せん》の家内は反《かへ》つて好い時に死んだ。人間といふものは妙なもので、若い時に貰つた奴がどうしても一番好いやうな気がするね。それに、性質が、今の家内のやうに利《き》かん気では無かつたが、そのかはり昔風に亭主に便《たよ》るといふ風で、何処迄《どこまで》も我輩を信じて居た。蓮華寺へ行つたお志保――彼娘《あのこ》がまた母親に克《よ》く似て居て、眼付なぞはもう彷彿《そつくり》さ。彼娘の顔を見ると、直に前《せん》の家内が我輩の眼に映る。我輩ばかりぢやない、他《ひと》が克く其を言つて、昔話なぞを始めるものだから、さあ今の家内は面白くないと見えるんだねえ。正直御話すると、我輩も蓮華寺なぞへ彼娘を呉れたくは無かつた。然し吾家《うち》に置けば、彼娘の為にならない。第一、其では可愛さうだ。まあ、蓮華寺では非常に欲《ほし》がるし、奥様も子は無し、それに他の土地とは違つて寺院《てら》を第一とする飯山ではあり、するところからして、お志保を手放して遣つたやうな訳さ。』
 聞けば聞くほど、丑松は気の毒に成つて来た。成程《なるほど》、左様《さう》言はれて見れば、落魄《らくはく》の画像《ゑすがた》其儘《そのまゝ》の様子のうちにも、どうやら武士らしい威厳を具へて居るやうに思はるゝ。
『丁度、それは彼娘の十三の時。』と敬之進は附和《つけた》して言つた。

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