つたばかりの男。散歩とは二人のぶら/\やつて来る様子でも知れた。
『瀬川君、大層遅いぢやないか。』
と銀之助は洋杖《ステッキ》を鳴し乍ら近《ちかづ》いた。
正直で、しかも友達思ひの銀之助は、直に丑松の顔色を見て取つた。深く澄んだ目付は以前の快活な色を失つて、言ふに言はれぬ不安の光を帯びて居たのである。『あゝ、必定《きつと》身体《からだ》の具合でも悪いのだらう』と銀之助は心に考へて、丑松から下宿を探しに行つた話を聞いた。
『下宿を? 君はよく下宿を取替へる人だねえ――此頃《こなひだ》あそこの家《うち》へ引越したばかりぢやないか。』
と毒の無い調子で、さも心《しん》から出たやうに笑つた。其時丑松の持つて居る本が目についたので、銀之助は洋杖を小脇に挾んで、見せろといふ言葉と一緒に右の手を差出した。
『是かね。』と丑松は微笑《ほゝゑ》みながら出して見せる。
『むゝ、「懴悔録」か。』と準教員も銀之助の傍に倚添《よりそ》ひながら眺めた。
『相変らず君は猪子先生のものが好きだ。』斯う銀之助は言つて、黄色い本の表紙を眺めたり、一寸|内部《なか》を開けて見たりして、『さう/\新聞の広告にもあつたツけ――へえ、斯様《こん》な本かい――斯様な質素な本かい。まあ君のは愛読を通り越して崇拝の方だ。はゝゝゝゝ、よく君の話には猪子先生が出るからねえ。嘸《さぞ》かしまた聞かせられることだらうなあ。』
『馬鹿言ひたまへ。』
と丑松も笑つて其本を受取つた。
夕靄《ゆふもや》の群は低く集つて来て、あそこでも、こゝでも、最早《もう》ちら/\灯《あかり》が点《つ》く。丑松は明後日あたり蓮華寺へ引越すといふ話をして、この友達と別れたが、やがて少許《すこし》行つて振返つて見ると、銀之助は往来の片隅に佇立《たゝず》んだ儘《まゝ》、熟《じつ》と是方《こちら》を見送つて居た。半町ばかり行つて復た振返つて見ると、未だ友達は同じところに佇立んで居るらしい。夕餐《ゆふげ》の煙は町の空を籠めて、悄然《しよんぼり》とした友達の姿も黄昏《たそが》れて見えたのである。
(三)
鷹匠町の下宿近く来た頃には、鉦《かね》の声が遠近《をちこち》の空に響き渡つた。寺々の宵の勤行《おつとめ》は始まつたのであらう。丁度下宿の前まで来ると、あたりを警《いまし》める人足の声も聞えて、提灯《ちやうちん》の光に宵闇の道を照し乍ら、一|挺《ちやう》の籠が舁がれて出るところであつた。あゝ、大尽が忍んで出るのであらう、と丑松は憐んで、黙然《もくねん》として其処に突立つて見て居るうちに、いよ/\其とは附添の男で知れた。同じ宿に居たとは言ひ乍ら、つひぞ丑松は大日向を見かけたことが無い。唯附添の男ばかりは、よく薬の罎《びん》なぞを提げて、出たり入つたりするところを見かけたのである。その雲を突くやうな大男が、今、尻端折りで、主人を保護したり、人足を指図したりする甲斐々々しさ。穢多の中でも卑賤《いや》しい身分のものと見え、其処に立つて居る丑松を同じ種族《やから》とは夢にも知らないで、妙に人を憚《はゞか》るやうな様子して、一寸|会釈《ゑしやく》し乍ら側を通りぬけた。門口に主婦《かみさん》、『御機嫌よう』の声も聞える。見れば下宿の内は何となく騒々しい。人々は激昂したり、憤慨したりして、いづれも聞えよがしに罵つて居る。
『難有《ありがた》うぞんじます――そんなら御気をつけなすつて。』
とまた主婦は籠の側へ駈寄つて言つた。籠の内の人は何とも答へなかつた。丑松は黙つて立つた。見る/\舁《かつ》がれて出たのである。
『ざまあ見やがれ。』
これが下宿の人々の最後に揚げた凱歌であつた。
丑松がすこし蒼《あを》ざめた顔をして、下宿の軒を潜つて入つた時は、未だ人々が長い廊下に群《むらが》つて居た。いづれも感情を制《おさ》へきれないといふ風で、肩を怒らして歩くもあり、板の間を踏み鳴らすもあり、中には塩を掴んで庭に蒔散《まきち》らす弥次馬もある。主婦は燧石《ひうちいし》を取出して、清浄《きよめ》の火と言つて、かち/\音をさせて騒いだ。
哀憐《あはれみ》、恐怖《おそれ》、千々の思は烈しく丑松の胸中を往来した。病院から追はれ、下宿から追はれ、其残酷な待遇《とりあつかひ》と恥辱《はづかしめ》とをうけて、黙つて舁がれて行く彼《あ》の大尽の運命を考へると、嘸《さぞ》籠の中の人は悲慨《なげき》の血涙《なんだ》に噎《むせ》んだであらう。大日向の運命は軈《やが》てすべての穢多の運命である。思へば他事《ひとごと》では無い。長野の師範校時代から、この飯山に奉職の身となつたまで、よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じやうな量見で、危いとも恐しいとも思はずに通り越して来たものだ。斯《か》うなると胸に浮ぶは父のことである。父といふのは今
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