茶色小紋の羽織を着て、痩せた白い手に珠数《ずゝ》を持ち乍《なが》ら、丑松の前に立つた。土地の習慣《ならはし》から『奥様』と尊敬《あが》められて居る斯《こ》の有髪《うはつ》の尼は、昔者として多少教育もあり、都会《みやこ》の生活も万更《まんざら》知らないでも無いらしい口の利き振であつた。世話好きな性質を額にあらはして、微な声で口癖のやうに念仏して、対手《あひて》の返事を待つて居る様子。
其時、丑松も考へた。明日《あす》にも、今夜にも、と言ひたい場合ではあるが、さて差当つて引越しするだけの金が無かつた。実際持合せは四十銭しかなかつた。四十銭で引越しの出来よう筈も無い。今の下宿の払ひもしなければならぬ。月給は明後日《あさつて》でなければ渡らないとすると、否《いや》でも応でも其迄待つより外はなかつた。
『斯うしませう、明後日の午後《ひるすぎ》といふことにしませう。』
『明後日?』と奥様は不思議さうに対手の顔を眺めた。
『明後日引越すのは其様《そんな》に可笑《をかし》いでせうか。』丑松の眼は急に輝いたのである。
『あれ――でも明後日は二十八日ぢやありませんか。別に可笑いといふことは御座《ござい》ませんがね、私はまた月が変つてから来《いら》つしやるかと思ひましてサ。』
『むゝ、これはおほきに左様《さう》でしたなあ。実は私も急に引越しを思ひ立つたものですから。』
と何気なく言消して、丑松は故意《わざ》と話頭《はなし》を変へて了《しま》つた。下宿の出来事は烈しく胸の中を騒がせる。それを聞かれたり、話したりすることは、何となく心に恐しい。何か穢多に関したことになると、毎時《いつ》もそれを避けるやうにするのが是男の癖である。
『なむあみだぶ。』
と口の中で唱へて、奥様は別に深く掘つて聞かうともしなかつた。
(二)
蓮華寺を出たのは五時であつた。学校の日課を終ると、直ぐ其足で出掛けたので、丑松はまだ勤務《つとめ》の儘の服装《みなり》で居る。白墨と塵埃《ほこり》とで汚れた着古しの洋服、書物やら手帳やらの風呂敷包を小脇に抱へて、それに下駄穿《げたばき》、腰弁当。多くの労働者が人中で感ずるやうな羞恥《はぢ》――そんな思を胸に浮べ乍ら、鷹匠《たかしやう》町の下宿の方へ帰つて行つた。町々の軒は秋雨あがりの後の夕日に輝いて、人々が濡れた道路に群つて居た。中には立ちとゞまつて丑松の通るところを眺めるもあり、何かひそひそ立話をして居るのもある。『彼処《あそこ》へ行くのは、ありやあ何だ――むゝ、教員か』と言つたやうな顔付をして、酷《はなはだ》しい軽蔑《けいべつ》の色を顕《あらは》して居るのもあつた。是が自分等の預つて居る生徒の父兄であるかと考へると、浅猿《あさま》しくもあり、腹立たしくもあり、遽《にはか》に不愉快になつてすたすた歩き初めた。
本町の雑誌屋は近頃出来た店。其前には新着の書物を筆太に書いて、人目を引くやうに張出してあつた。かねて新聞の広告で見て、出版の日を楽みにして居た『懴悔録』――肩に猪子《ゐのこ》蓮太郎氏著、定価までも書添へた広告が目につく。立ちどまつて、其人の名を思出してさへ、丑松はもう胸の踊るやうな心地《こゝち》がしたのである。見れば二三の青年が店頭《みせさき》に立つて、何か新しい雑誌でも猟《あさ》つて居るらしい。丑松は色の褪《あ》せたズボンの袖嚢《かくし》の内へ手を突込んで、人知れず銀貨を鳴らして見ながら、幾度か其雑誌屋の前を往つたり来たりした。兎《と》に角《かく》、四十銭あれば本が手に入る。しかし其を今|茲《こゝ》で買つて了へば、明日は一文無しで暮さなければならぬ。転宿《やどがへ》の用意もしなければならぬ。斯ういふ思想《かんがへ》に制せられて、一旦は往きかけて見たやうなものゝ、やがて、復《ま》た引返した。ぬつと暖簾《のれん》を潜つて入つて、手に取つて見ると――それはすこし臭気《にほひ》のするやうな、粗悪な洋紙に印刷した、黄色い表紙に『懴悔録』としてある本。貧しい人の手にも触れさせたいといふ趣意から、わざと質素な体裁を択《えら》んだのは、是書《このほん》の性質をよく表して居る。あゝ、多くの青年が読んで知るといふ今の世の中に、飽くことを知らない丑松のやうな年頃で、どうして読まず知らずに居ることが出来よう。智識は一種の饑渇《ひもじさ》である。到頭四十銭を取出して、欲《ほし》いと思ふ其本を買求めた。なけなしの金とはいひ乍《なが》ら、精神《こゝろ》の慾には替へられなかつたのである。
『懴悔録』を抱いて――買つて反つて丑松は気の衰頽《おとろへ》を感じ乍ら、下宿をさして帰つて行くと、不図《ふと》、途中で学校の仲間に出逢《であ》つた。一人は土屋銀之助と言つて、師範校時代からの同窓の友。一人は未《ま》だ極《ご》く年若な、此頃準教員に成
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