、牧夫をして、烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の麓《ふもと》に牛を飼つて、隠者のやうな寂しい生涯《しやうがい》を送つて居る。丑松はその西乃入《にしのいり》牧場を思出した。その牧場の番小屋を思出した。
『阿爺《おとつ》さん、阿爺さん。』
と口の中で呼んで、自分の部屋をあちこち/\と歩いて見た。不図《ふと》父の言葉を思出した。
はじめて丑松が親の膝下《しつか》を離れる時、父は一人息子の前途を深く案じるといふ風で、さま/″\な物語をして聞かせたのであつた。其時だ――一族の祖先のことも言ひ聞かせたのは。東海道の沿岸に住む多くの穢多の種族のやうに、朝鮮人、支那人、露西亜《ロシア》人、または名も知らない島々から漂着したり帰化したりした異邦人の末とは違ひ、その血統は古《むかし》の武士の落人《おちうど》から伝《つたは》つたもの、貧苦こそすれ、罪悪の為に穢れたやうな家族ではないと言ひ聞かせた。父はまた添付《つけた》して、世に出て身を立てる穢多の子の秘訣――唯一つの希望《のぞみ》、唯一つの方法《てだて》、それは身の素性を隠すより外に無い、『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅《めぐりあ》はうと決して其とは自白《うちあ》けるな、一旦の憤怒《いかり》悲哀《かなしみ》に是《この》戒《いましめ》を忘れたら、其時こそ社会《よのなか》から捨てられたものと思へ。』斯う父は教へたのである。
一生の秘訣とは斯の通り簡単なものであつた。『隠せ。』――戒はこの一語《ひとこと》で尽きた。しかし其頃はまだ無我夢中、『阿爺《おやぢ》が何を言ふか』位に聞流して、唯もう勉強が出来るといふ嬉しさに家を飛出したのであつた。楽しい空想の時代は父の戒も忘れ勝ちに過ぎた。急に丑松は少年《こども》から大人に近《ちかづ》いたのである。急に自分のことが解つて来たのである。まあ、面白い隣の家から面白くない自分の家へ移つたやうに感ずるのである。今は自分から隠さうと思ふやうになつた。
(四)
あふのけさまに畳の上へ倒れて、暫時《しばらく》丑松は身動きもせずに考へて居たが、軈《やが》て疲労《つかれ》が出て眠《ね》て了《しま》つた。不図目が覚めて、部屋の内《なか》を見廻した時は、点《つ》けて置かなかつた筈の洋燈《ランプ》が寂しさうに照して、夕飯の膳も片隅に置いてある。自分は未だ洋服の儘《まゝ》。丑松の心地《こゝろもち》には一時間余も眠つたらしい。戸の外には時雨《しぐれ》の降りそゝぐ音もする。起き直つて、買つて来た本の黄色い表紙を眺め乍ら、膳を手前へ引寄せて食つた。飯櫃《おはち》の蓋を取つて、あつめ飯の臭気《にほひ》を嗅《か》いで見ると、丑松は最早《もう》嘆息して了つて、そこ/\にして膳を押遣《おしや》つたのである。『懴悔録』を披《ひろ》げて置いて、先づ残りの巻煙草《まきたばこ》に火を点けた。
この本の著者――猪子蓮太郎の思想は、今の世の下層社会の『新しい苦痛』を表白《あらは》すと言はれて居る。人によると、彼男《あのをとこ》ほど自分を吹聴《ふいちやう》するものは無いと言つて、妙に毛嫌するやうな手合もある。成程《なるほど》、其筆にはいつも一種の神経質があつた。到底蓮太郎は自分を離れて説話《はなし》をすることの出来ない人であつた。しかし思想が剛健で、しかも観察の精緻《せいち》を兼ねて、人を吸引《ひきつ》ける力の壮《さか》んに溢《あふ》れて居るといふことは、一度其著述を読んだものゝ誰しも感ずる特色なのである。蓮太郎は貧民、労働者、または新平民等の生活状態を研究して、社会の下層を流れる清水に掘りあてる迄は倦《う》まず撓《たわ》まず努力《つと》めるばかりでなく、また其を読者の前に突着けて、右からも左からも説明《ときあか》して、呑込めないと思ふことは何度繰返しても、読者の腹《おなか》の中に置かなければ承知しないといふ遣方《やりかた》であつた。尤《もつと》も蓮太郎のは哲学とか経済とかの方面から左様《さう》いふ問題《ことがら》を取扱はないで、寧《むし》ろ心理の研究に基礎《どだい》を置いた。文章はたゞ岩石を並べたやうに思想を並べたもので、露骨《むきだし》なところに反つて人を動かす力があつたのである。
しかし丑松が蓮太郎の書いたものを愛読するのは唯|其丈《それだけ》の理由からでは無い。新しい思想家でもあり戦士でもある猪子蓮太郎といふ人物が穢多の中から産れたといふ事実は、丑松の心に深い感動を与へたので――まあ、丑松の積りでは、隠《ひそか》に先輩として慕つて居るのである。同じ人間であり乍ら、自分等ばかり其様《そんな》に軽蔑《けいべつ》される道理が無い、といふ烈しい意気込を持つやうになつたのも、実はこの先輩の感化であつた。斯ういふ訳から、蓮太郎の著述といへば必ず買つて読む。雑誌に名が出る、必ず目
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