を通す。読めば読む程丑松はこの先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな気がした。穢多としての悲しい自覚はいつの間にか其頭を擡《もちあ》げたのである。
今度の新著述は、『我は穢多なり』といふ文句で始めてあつた。其中には同族の無智と零落とが活きた画のやうに描いてあつた。其中には多くの正直な男女《をとこをんな》が、たゞ穢多の生れといふばかりで、社会から捨てられて行く光景《ありさま》も写してあつた。其中には又、著者の煩悶の歴史、歓《うれ》し哀《かな》しい過去の追想《おもひで》、精神の自由を求めて、しかも其が得られないで、不調和な社会の為に苦《くるし》みぬいた懐疑《うたがひ》の昔語《むかしがたり》から、朝空を望むやうな新しい生涯に入る迄――熱心な男性《をとこ》の嗚咽《すゝりなき》が声を聞くやうに書きあらはしてあつた。
新しい生涯――それが蓮太郎には偶然な身のつまづきから開けたのである。生れは信州高遠の人。古い穢多の宗族《いへがら》といふことは、丁度長野の師範校に心理学の講師として来て居た頃――丑松がまだ入学しない以前《まへ》――同じ南信の地方から出て来た二三の生徒の口から泄《も》れた。講師の中に賤民の子がある。是噂が全校へ播《ひろが》つた時は、一同|驚愕《おどろき》と疑心《うたがひ》とで動揺した。ある人は蓮太郎の人物を、ある人はその容貌《ようばう》を、ある人はその学識を、いづれも穢多の生れとは思はれないと言つて、どうしても虚言《うそ》だと言張るのであつた。放逐、放逐、声は一部の教師仲間の嫉妬《しつと》から起つた。嗚呼、人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』で殺される猶太人《ユダヤじん》もなからうし、西洋で言囃《いひはや》す黄禍の説もなからう。無理が通れば道理が引込むといふ斯《この》世の中に、誰が穢多の子の放逐を不当だと言ふものがあらう。いよ/\蓮太郎が身の素性を自白して、多くの校友に別離《わかれ》を告げて行く時、この講師の為に同情《おもひやり》の涙《なんだ》を流すものは一人もなかつた。蓮太郎は師範校の門を出て、『学問の為の学問』を捨てたのである。
この当時の光景《ありさま》は『懴悔録』の中に精《くは》しく記載してあつた。丑松は身につまされるかして、幾度《いくたび》か読みかけた本を閉ぢて、目を瞑《つぶ》つて、やがて其を読むのは苦しくなつて来た。同情《おもひやり》は妙なもので、反つて底意を汲ませないやうなことがある。それに蓮太郎の筆は、面白く読ませるといふよりも、考へさせる方だ。終《しまひ》には丑松も書いてあることを離れて了つて、自分の一生ばかり思ひつゞけ乍ら読んだ。
今日まで丑松が平和な月日を送つて来たのは――主に少年時代からの境遇にある。そも/\は小諸の向町《むかひまち》(穢多町)の生れ。北佐久の高原に散布する新平民の種族の中でも、殊に四十戸ばかりの一族《いちまき》の『お頭《かしら》』と言はれる家柄であつた。獄卒《らうもり》と捕吏《とりて》とは、維新前まで、先祖代々の職務《つとめ》であつて、父はその監督の報酬《むくい》として、租税を免ぜられた上、別に俸米《ふち》をあてがはれた。それ程の男であるから、貧苦と零落との為め小県郡の方へ家を移した時にも、八歳の丑松を小学校へやることは忘れなかつた。丑松が根津村《ねづむら》の学校へ通ふやうになつてからは、もう普通《なみ》の児童《こども》で、誰もこの可憐な新入生を穢多の子と思ふものはなかつたのである。最後に父は姫子沢《ひめこざは》の谷間《たにあひ》に落着いて、叔父夫婦も一緒に移り住んだ。異《かは》つた土地で知るものは無し、強《し》ひて是方《こちら》から言ふ必要もなし、といつたやうな訳で、終《しまひ》には慣れて、少年の丑松は一番早く昔を忘れた。官費の教育を受ける為に長野へ出掛ける頃は、たゞ先祖の昔話としか考へて居なかつた位で。
斯ういふ過去の記憶は今丑松の胸の中に復活《いきかへ》つた。七つ八つの頃まで、よく他の小供に調戯《からか》はれたり、石を投げられたりした、其|恐怖《おそれ》の情はふたゝび起つて来た。朦朧《おぼろげ》ながらあの小諸の向町に居た頃のことを思出した。移住する前に死んだ母親のことなぞを思出した。『我は穢多なり』――あゝ、どんなに是一句が丑松の若い心を掻乱《かきみだ》したらう。『懴悔録』を読んで、反《かへ》つて丑松はせつない苦痛《くるしみ》を感ずるやうになつた。
第弐章
(一)
毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊《こと》に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女《をとこをんな》の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛《いたづらざか》りの少年の群は、一時に溢れて、
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