るうちに、鶏が鳴いた。丑松は新しい暁の近いたことを知つた。


   第弐拾壱章

       (一)

 学校へ行く準備《したく》をする為に、朝早く丑松は蓮華寺へ帰つた。庄馬鹿を始め、子坊主迄、談話《はなし》は蓮太郎の最後、高柳の拘引《こういん》の噂《うはさ》なぞで持切つて居た。昨日の朝丑松の留守へ尋ねて来た客が亡《な》くなつた其人である、と聞いた時は、猶々《なほ/\》一同驚き呆《あき》れた。丑松はまた奥様から、妹が長野の方へ帰るやうに成つたこと、住職が手を突いて詑入《わびい》つたこと、それから夫婦別れの話も――まあ、見合せにしたといふことを聞取つた。
『なむあみだぶ。』
 と奥様は珠数《ずゝ》を爪繰《つまぐ》り乍ら唱《とな》へて居た。
 丁度十二月|朔日《ついたち》のことで、いつも寺では早く朝飯《あさはん》を済《すま》すところからして、丑松の部屋へも袈裟治が膳を運んで来た。斯《か》うして寺の人と同じやうに早く食ふといふことは、近頃無いためし――朝は必ず生温《なまあたゝか》い飯に、煮詰つた汁と極《きま》つて居たのが、其日にかぎつては、飯も焚きたての気《いき》の立つやつで、汁は又、煮立つたばかりの赤味噌のにほひが甘《うま》さうに鼻の端《さき》へ来るのであつた。小皿には好物の納豆も附いた。其時丑松は膳に向ひ乍ら、兎《と》も角《かく》も斯うして生きながらへ来た今日迄《こんにちまで》を不思議に難有《ありがた》く考へた。あゝ、卑賤《いや》しい穢多の子の身であると覚期すれば、飯を食ふにも我知らず涙が零《こぼ》れたのである。
 朝飯の後、丑松は机に向つて進退伺を書いた。其時一生の戒を思出した。あの父の言葉を思出した。『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅《めぐりあ》はうと、決して其とは自白《うちあ》けるな、一旦の憤怒《いかり》悲哀《かなしみ》に是戒《このいましめ》を忘れたら、其時こそ社会《よのなか》から捨てられたものと思へ。』斯う父は教へたのであつた。『隠せ』――其を守る為には今日迄|何程《どれほど》の苦心を重ねたらう。『忘れるな』――其を繰返す度に何程の猜疑《うたがひ》と恐怖《おそれ》とを抱いたらう。もし父が斯《こ》の世に生きながらへて居たら、まあ気でも狂つたかのやうに自分の思想《かんがへ》の変つたことを憤り悲むであらうか、と想像して見た。仮令《たとひ》誰が何と言はうと、今はその戒を破り棄てる気で居る。
『阿爺《おとつ》さん、堪忍《かんにん》して下さい。』
 と詑入るやうに繰返した。
 冬の朝日が射して来た。丑松は机を離れて窓の方へ行つた。障子《しやうじ》を開けて眺めると、例の銀杏《いてふ》の枯々《かれ/″\》な梢《こずゑ》を経《へだ》てゝ、雪に包まれた町々の光景《ありさま》が見渡される。板葺《いたぶき》の屋根、軒廂《のきびさし》、すべて目に入るかぎりのものは白く埋れて了つて、家と家との間からは青々とした朝餐《あさげ》の煙が静かに立登つた。小学校の建築物《たてもの》も、今、日をうけた。名残惜《なごりを》しいやうな気に成つて、冷《つめた》く心地《こゝろもち》の好い朝の空気を呼吸し乍ら、やゝしばらく眺め入つて居たが、不図胸に浮んだは蓮太郎の『懴悔録』、開巻第一章、『我は穢多なり』と書起してあつたのを今更のやうに新しく感じて、丁度この町の人々に告白するやうに、其文句を窓のところで繰返した。
『我は穢多なり。』
 ともう一度繰返して、それから丑松は学校へ行く準備《したく》にとりかゝつた。

       (二)

 破戒――何といふ悲しい、壮《いさま》しい思想《かんがへ》だらう。斯《か》う思ひ乍ら、丑松は蓮華寺の山門を出た。とある町の角のところまで歩いて行くと、向ふの方から巡査に引かれて来る四五人の男に出逢《であ》つた。いづれも腰繩を附けられ、蒼《あを》ざめた顔付して、人目を憚《はゞか》り乍ら悄々《しを/\》と通る。中に一人、黒の紋付羽織、白足袋|穿《ばき》、顔こそ隠して見せないが、当世風の紳士姿は直に高柳利三郎と知れた。克《よ》く見ると、一緒に引かれて行く怪しげな風体の人々は、高柳の為に使役《つか》はれた壮士らしい。流石に心は後へ残るといふ風で、時々立留つては振返つて見る度に、巡査から注意をうけるやうな手合もあつた。『あゝ、捕つて行くナ。』と丑松の傍に立つて眺めた一人が言つた。『自業自得さ。』とまた他の一人が言つた。見る/\高柳の一行は巡査の言ふなりに町の角を折れて、軈《やが》て雪山の影に隠れて了つた。
 男女の少年は今、小学校を指して急ぐのであつた。近在から通ふ児童《こども》なぞは、絨《フランネル》の布片《きれ》で頭を包んだり、肩掛を冠つたりして、声を揚げ乍ら雪の中を飛んで行く。町の児童《こども》は又、思ひ/\に誘ひ合せて、後にな
前へ 次へ
全122ページ中107ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング