烈しく丑松の心を刺激した。一体、丑松が師範校へ入学したのは、多くの他の学友と同じやうに、衣食の途《みち》を得る為で――それは小学教師を志願するやうなものは、誰しも似た境遇に居るのであるから――とはいふものゝ、丑松も無論今の位置に満足しては居なかつた。しかし、銀之助のやうな場合は特別として、高等師範へでも行くより外に、小学教師の進んで出る途は無い。さも無ければ、長い/\十年の奉公。其義務年限の間、束縛されて働いて居なければならない。だから丑松も高等師範へ――といふことは卒業の当時考へないでも無い。志願さへすれば最早とつくに選抜されて居たらう。そこがそれ穢多の悲しさには、妙にそちらの方には気が進まなかつたのである。丑松に言はせると、たとへ高等師範を卒業して、中学か師範校かの教員に成つたとしたところで、もしも蓮太郎のやうな目に逢つたら奈何《どう》する。何処《どこ》まで行つても安心が出来ない。それよりは飯山あたりの田舎《ゐなか》に隠れて、じつと辛抱して、義務年限の終りを待たう。其間に勉強して他の方面へ出る下地を作らう。素性が素性なら、友達なんぞに置いて行かれる積りは毛頭無いのだ。斯う嘆息して、丑松は深く銀之助の身の上を羨んだ。
他の一通は高等四年生総代としてある。それは省吾の書いたもので、手紙の文句も覚束なく、作文の時間に教へた通りをそつくり其儘の見舞状、『根津にて、瀬川先生――風間省吾より』としてあつた。『猶々《なほ/\》』とちひさく隅の方に、『蓮華寺の姉よりも宜敷《よろしく》』としてあつた。
『姉よりも宜敷。』
と繰返して、丑松は言ふに言はれぬ可懐《なつか》しさを感じた。やがてお志保のことを考へる為に、裏の方へ出掛けた。
(四)
追憶《おもひで》の林檎畠――昔若木であつたのも今は太い幹となつて、中には僅かに性命《いのち》を保つて居るやうな虫ばみ朽ちたのもある。見れば木立も枯れ/″\、細く長く垂れ下る枝と枝とは左右に込合つて、思ひ/\に延びて、いかにも初冬の風趣《おもむき》を顕《あらは》して居た。その裸々《らゝ》とした幹の根元から、芽も籠る枝のわかれ、まだところ/″\に青み残つた力なげの霜葉まで、日につれて地に映る果樹の姿は丑松の足許《あしもと》にあつた。そここゝの樹の下に雄雌《をすめす》の鶏、土を浴びて静息《じつ》として蹲踞《はひつくば》つて居るのは、大方羽虫を振ふ為であらう。丁度この林檎畠を隔てゝ、向ふに草葺《くさぶき》の屋根も見える――あゝ、お妻の生家《さと》だ。克《よ》く遊びに行つた家《うち》だ。薄煙青々と其土壁を泄《も》れて立登るのは、何となく人懐しい思をさせるのであつた。
『姉よりも宜敷《よろしく》。』
とまた繰返して、丑松は樹と樹の間をあちこちと歩いて見た。
楽しい思想《かんがへ》は来て、いつの間にか、丑松の胸の中に宿つたのである。昔、昔、少年の丑松があの幼馴染《をさななじみ》のお妻と一緒に遊んだのは爰《こゝ》だ。互に人目を羞《は》ぢらつて、輝く若葉の蔭に隠れたのは爰だ。互に初恋の私語《さゝやき》を取交したのは爰だ。互に無邪気な情の為に燃え乍ら、唯もう夢中で彷徨《さまよ》つたのは爰だ。
斯《か》ういふ風に、過去つたことを思ひ浮べて居ると、お妻からお志保、お志保からお妻と、二人の俤《おもかげ》は往《い》つたり来たりする。別にあの二人は似て居るでも無い。年齢《とし》も違ふ、性質も違ふ、容貌《かほかたち》も違ふ。お妻を姉とも言へないし、お志保を妹とも思はれない。しかし一方のことを思出すと、きつと又た一方のことをも考へて居るのは不思議で――
あゝ、穢多の悲嘆《なげき》といふことさへ無くば、是程《これほど》深く人懐しい思も起らなかつたであらう。是程深く若い生命《いのち》を惜むといふ気にも成らなかつたであらう。是程深く人の世の歓楽《たのしみ》を慕ひあこがれて、多くの青年が感ずることを二倍にも三倍にもして感ずるやうな、其様《そん》な切なさは知らなかつたであらう。あやしい運命に妨《さまた》げられゝば妨げられる程、余計に丑松の胸は溢《あふ》れるやうに感ぜられた。左様《さう》だ――あのお妻は自分の素性を知らなかつたからこそ、昔一緒にこの林檎畠を彷徨《さまよ》つて、蜜のやうな言葉を取交しもしたのである。誰が卑賤《いや》しい穢多の子と知つて、其|朱唇《くちびる》で笑つて見せるものが有らう。もしも自分のことが世に知れたら――斯ういふことは考へて見たばかりでも、実に悲しい、腹立たしい。懐しさは苦しさに交つて、丑松の心を掻乱すやうにした。
思ひ耽《ふけ》つて樹の下を歩いて居ると、急に鶏の声が起つて、森閑《しんかん》とした畠の空気に響き渡つた。
『姉よりも宜敷《よろしく》。』
ともう一度繰返して、それから丑松は斯《
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