こ》の場処を出て行つた。
其晩はお志保のことを考へ乍ら寝た。一度有つたことは二度有るもの。翌《あく》る晩も其又次の晩も、寝る前には必ず枕の上でお志保を思出すやうになつた。尤も朝になれば、そんなことは忘れ勝ちで、『奈何《どう》して働かう、奈何して生活しよう――自分は是から将来《さき》奈何したら好からう』が日々《にち/\》心を悩ますのである。父の忌服《きぶく》は半ば斯ういふ煩悶のうちに過したので、さていよ/\『奈何する』となつた時は、別に是ぞと言つて新しい途《みち》の開けるでも無かつた。四五日の間、丑松はうんと考へた積りであつた。しかし、後になつて見ると、唯もう茫然《ぼんやり》するやうなことばかり。つまり飯山へ帰つて、今迄通りの生活を続けるより外《ほか》に方法も無かつたのである。あゝ、年は若し、経験は少し、身は貧しく、義務年限には縛られて居る――丑松は暗い前途を思ひやつて、やたらに激昂したり戦慄《ふる》へたりした。
第拾弐章
(一)
二七日《ふたなぬか》が済《す》む、直に丑松は姫子沢を発《た》つことにした。やれ、それ、と叔父夫婦は気を揉《も》んで、暦を繰つて日を見るやら、草鞋《わらぢ》の用意をして呉れるやら、握飯《むすび》は三つも有れば沢山だといふものを五つも造《こしら》へて、竹の皮に包んで、別に瓜の味噌漬《みそづけ》を添へて呉れた。お妻の父親《おやぢ》もわざわざやつて来て、炉辺《ろばた》での昔語。煤《すゝ》けた古壁に懸かる例の『山猫』を見るにつけても、亡《な》くなつた老牧夫の噂《うはさ》は尽きなかつた。叔母が汲んで出す別離《わかれ》の茶――其色も濃く香も好いのを飲下した時は、どんなにか丑松も暖い血縁《みうち》のなさけを感じたらう。道祖神の立つ故郷《ふるさと》の出口迄叔父に見送られて出た。
其日は灰色の雲が低く集つて、荒寥《くわうれう》とした小県《ちひさがた》の谷間《たにあひ》を一層|暗欝《あんうつ》にして見せた。烏帽子《ゑぼし》一帯の山脈も隠れて見えなかつた。父の墓のある西乃入の沢あたりは、あるひは最早《もう》雪が来て居たらう。昨日一日の凩《こがらし》で、急に枯々な木立も目につき、梢《こずゑ》も坊主になり、何となく野山の景色が寂しく冬らしくなつた。長い、長い、考へても淹悶《うんざり》するやうな信州の冬が、到頭《たうとう》やつて来た。人々は最早あの※[#「木+危」、第4水準2−14−64]染《くちなしぞめ》の真綿帽子を冠り出した。荷をつけて通る馬の鼻息の白いのを見ても、いかに斯《この》山上の気候の変化が激烈であるかを感ぜさせる。丑松は冷い空気を呼吸し乍ら、岩石の多い坂路を下りて行つた。荒谷《あらや》の村はづれ迄行けば、指の頭《さき》も赤く腫《は》れ脹《ふく》らんで、寒さの為に感覚を失つた位。
田中から直江津行の汽車に乗つて、豊野へ着いたのは丁度|正午《ひる》すこし過。叔母が呉れた握飯《むすび》は停車場《ステーション》前の休茶屋で出して食つた。空腹《すきばら》とは言ひ乍ら五つ迄は。さて残つたのを捨てる訳にもいかず、犬に呉れるは勿体《もつたい》なし、元の竹の皮に包んで外套《ぐわいたう》の袖袋《かくし》へ突込んだ。斯うして腹をこしらへた上、川船の出るといふ蟹沢を指して、草鞋《わらぢ》の紐《ひも》を〆直《しめなほ》して出掛けた。其間|凡《およ》そ一里|許《ばかり》。尤も往きと帰りとでは、同じ一里が近く思はれるもので、北国街道の平坦《たひら》な長い道を独りてく/\やつて行くうちに、いつの間にか丑松は広濶《ひろ/″\》とした千曲川《ちくまがは》の畔《ほとり》へ出て来た。急いで蟹沢の船場迄行つて、便船《びんせん》は、と尋ねて見ると、今々飯山へ向けて出たばかりといふ。どうも拠《よんどころ》ない。次の便船の出るまで是処《こゝ》で待つより外は無い。それでもまだ歩いて行くよりは増だ、と考へて、丑松は茶屋の上《あが》り端《はな》に休んだ。
霙《みぞれ》が落ちて来た。空はいよ/\暗澹《あんたん》として、一面の灰紫色に掩《おほ》はれて了《しま》つた。斯うして一時間の余も待つて居るといふことが、既にもう丑松の身にとつては、堪へ難い程の苦痛《くるしみ》であつた。それに、道を急いで来た為に、いやに身体《からだ》は蒸《む》されるやう。襯衣《シャツ》の背中に着いたところは、びつしより熱い雫《しづく》になつた。額に手を当てゝ見れば、汗に濡《ぬ》れた髪の心地《こゝろもち》の悪さ。胸のあたりを掻展《かきひろ》げて、少許《すこし》気息《いき》を抜いて、軈《やが》て濃い茶に乾いた咽喉《のど》を霑《うるほ》して居る内に、ポツ/\舟に乗る客が集つて来る。あるものは奥の炬燵《こたつ》にあたるもあり、あるものは炉辺へ行つて濡れた羽織を乾すもあり、中
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