やがて他《わき》を向いて意味も無く笑ふのであつた。
『あ、ちよと、瀬川君、飯山の御住処《おところ》を伺つて置きませう。』斯う蓮太郎は尋ねた。
『飯山は愛宕町《あたごまち》の蓮華寺といふところへ引越しました。』と丑松は答へる。
『蓮華寺?』
『下水内郡飯山町蓮華寺方――それで分ります。』
『むゝ、左様《さう》ですか。それから、是《これ》はまあ是限《これぎ》りの御話ですが――』と蓮太郎は微笑《ほゝゑ》んで、『ひよつとすると、僕も君の方まで出掛けて行くかも知れません。』
『飯山へ?』丑松の目は急に輝いた。
『はあ――尤《もつと》も、佐久小県の地方を廻つて、一旦長野へ引揚げて、それからのことですから、まだ奈何《どう》なるか解りませんがね、若《も》し飯山へ出掛けるやうでしたら是非|御訪《おたづ》ねしませう。』
其時、汽笛の音が起つた。見れば直江津の方角から、長い列車が黒烟《くろけぶり》を揚げて進んで来た。顔も衣服《きもの》も垢染《あかじ》み汚れた駅夫の群は忙しさうに駈けて歩く。やがて駅長もあらはれた。汽車はもう人々の前に停つた。多くの乗客はいづれも窓に倚凭《よりかゝ》つて眺める。細君も、弁護士も、丑松に別離《わかれ》を告げて周章《あわたゞ》しく乗込んだ。
『それぢや、君、失敬します。』
といふ言葉を残して置いて、蓮太郎も同じ室へ入る、直に駅夫が飛んで来てぴしやんと其戸を閉めて行つた。丑松の側に居た駅長が高く右の手を差上げて、相図の笛を吹鳴らしたかと思ふと、汽車はもう線路を滑り初めた。細君は窓から顔を差出して、もう一度丑松に挨拶したが、たゞさへ悪い其色艶が忘れることの出来ないほど蒼《あを》かつた。見る見る乗客の姿は動揺して、甲から乙へと影のやうに通過ぎる。丑松は喪心した人のやうになつて、長いこと同じところに樹《う》ゑたやうに立つた。あゝ、先輩は行つて了つた、と思ひ浮べた頃は、もう汽車の形すら見えなかつたのである。後に残る白い雲のやうな煙の群、その一団一団の集合《あつまり》が低く地の上に這《は》ふかと見て居ると、急に風に乱れて、散り/″\になつて、終《しまひ》に初冬の空へ掻消すやうに失くなつて了つた。
(三)
何故《なぜ》人の真情は斯う思ふやうに言ひ表すことの出来ないものであらう。其日といふ其日こそは、あの先輩に言ひたい/\と思つて、一度となく二度となく自分で自分を励まして見たが、とう/\言はずに別れて了《しま》つた。どんなに丑松は胸の中に戦ふ深い恐怖《おそれ》と苦痛《くるしみ》とを感じたらう。どんなに丑松は寂しい思を抱《いだ》き乍《なが》ら、もと来た道を根津村の方へと帰つて行つたらう。
初七日も無事に過ぎた。墓参りもし、法事も済み、わざとの振舞は叔母が手料理の精進《しやうじん》で埒明《らちあ》けて、さて漸《やうや》く疲労《つかれ》が出た頃は、叔父も叔母も安心の胸を撫下した。独り精神《こゝろ》の苦闘《たゝかひ》を続けたのは丑松で、蓮太郎が残して行つた新しい刺激は書いたものを読むにも勝《まさ》る懊悩《あうなう》を与へたのである。時として丑松は、自分の一生のことを考へる積りで、小県《ちひさがた》の傾斜を彷徨《さまよ》つて見た。根津の丘、姫子沢の谷、鳥が啼《な》く田圃側《たんぼわき》なぞに霜枯れた雑草を蹈《ふ》み乍ら、十一月上旬の野辺に満ちた光を眺めて佇立《たゝず》んだ時は、今更のやうに胸を流れる活きた血潮の若々しさを感ずる。確実《たしか》に、自分には力がある。斯《か》う丑松は考へるのであつた。しかし其力は内部《なか》へ/\と閉塞《とぢふさが》つて了つて、衝《つ》いて出て行く道が解らない。丑松はたゞ同じことを同じやうに繰返し乍ら、山の上を歩き廻つた。あゝ、自然は慰めて呉れ、励ましては呉れる。しかし右へ行けとも、左へ行けとも、そこまでは人に教へなかつた。丑松が尋ねるやうな問には、野も、丘も、谷も答へなかつたのである。
ある日の午後、丑松は二通の手紙を受取つた。二通ともに飯山から。一通は友人の銀之助。例の筆まめ、相変らず長々しく、丁度|談話《はなし》をするやうな調子で、さま/″\慰藉《なぐさめ》を書き籠め、さて飯山の消息には、校長の噂《うはさ》やら、文平の悪口やら、『僕も不幸にして郡視学を叔父に持たなかつた』とかなんとか言ひたい放題なことを書き散らし、普通教育者の身を恨《うら》み罵《のゝし》り、到底今日の教育界は心ある青年の踏み留まるべきところでは無いと奮慨してよこした。長野の師範校に居る博物科の講師の周旋で、いよ/\農科大学の助手として行くことに確定したから、いづれ遠からず植物研究に身を委《ゆだ》ねることが出来るであらう――まあ、喜んで呉れ、といふ意味を書いてよこした。
功名を慕ふ情熱は、斯の友人の手紙を見ると同時に、
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