くとも市村君の選挙が済むまで。実はね、家内も彼様《あゝ》言ひますし、一旦は東京へ帰らうかとも思ひましたよ。ナニ、これが普通の選挙の場合なら、黙つて帰りますサ。どうせ僕なぞが居たところで、大した応援も出来ませんからねえ。まあ市村君の身になつて考へて見ると、先生は先生だけの覚悟があつて、候補者として立つのですから、誰を政敵にするのも其味は一つです。はゝゝゝゝ。しかし、市村君が勝つか、あの高柳利三郎が勝つか、といふことは、僕等の側から考へると、一寸普通の場合とは違ふかとも思はれる――』
丑松は黙つて随いて行つた。蓮太郎は何か思出したやうに、後から来る細君の方を振返つて見て、やがて復《ま》た歩き初める。
『だつて、君、考へて見て呉れたまへ。あの高柳の行為《やりかた》を考へて見て呉れたまへ。あゝ、いくら吾儕《われ/\》が無智な卑賤《いや》しいものだからと言つて、蹈付《ふみつ》けられるにも程が有る。どうしても彼様《あん》な男に勝たせたくない。何卒《どうか》して市村君のものに為て遣りたい。高柳の話なぞを聞かなければ格別、聞いて、知つて、黙つて帰るといふことは、新平民として余り意気地《いくぢ》が無さ過ぎるからねえ。』
『では、先生は奈何《どう》なさる御積りなんですか。』
『奈何するとは?』
『黙つて帰ることが出来ないと仰《おつしや》ると――』
『ナニ、君、僅かに打撃を加へる迄《まで》のことさ。はゝゝゝゝ。なにしろ先方《さき》には六左衛門といふ金主が附いたのだから、いづれ買収も為るだらうし、壮士的な運動も遣《や》るだらう。そこへ行くと、是方《こつち》は草鞋《わらぢ》一足、舌一枚――おもしろい、おもしろい、敵はたゞ金の力より外に頼りに為るものが無いのだからおもしろい。はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
『しかし、うまく行つて呉れると好いですがなあ――』
『はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
斯《か》ういふ談話《はなし》をして行くうちに、二人は上田|停車場《ステーション》に着いた。
上野行の上り汽車が是処《こゝ》を通る迄には未だ少許《すこし》間が有つた。多くの旅客は既に斯の待合室に満ち溢《あふ》れて居た。細君も直に一緒になつて、三人して弁護士を待受けた。蓮太郎は巻煙草を取出して、丑松に勧め、自分もまた火を点《つ》けて、其を燻《ふか》し/\何を言出すかと思ふと、『いや、信州といふところは余程面白いところさ。吾儕《われ/\》のやうなものを斯様《こんな》に待遇するところは他の国には無いね。』と言ひさして、丑松の顔を眺《なが》め、細君の顔を眺め、それから旅客《たびびと》の群をも眺め廻し乍ら、『ねえ瀬川君、僕も御承知の通りな人間でせう。他の場合とは違つて選挙ですから、実は僕なぞの出る幕では無いと思つたのです。万一、選挙人の感情を害するやうなことが有つては、反《かへ》つて藪蛇《やぶへび》だ。左様《さう》思ふから、まあ演説は見合せにする考へだつたのです。ところが信州といふところは変つた国柄で、僕のやうなものに是非|談話《はなし》をして呉れなんて――はあ、今夜は小諸で、市村君と一緒に演説会へ出ることに。』と言つて、思出したやうに笑つて、『この上田で僕等が談話をした時には七百人から集りました。その聴衆が実に真面目に好く聞いて呉れましたよ。長野に居た新聞記者の言草では無いが、「信州ほど演説の稽古をするに好い処はない、」――全く其通りです。智識の慾に富んで居るのは、斯の山国の人の特色でせうね。これが他の国であつて見たまへ、まあ僕等のやうなものを相手にして呉れる人はありやしません。それが信州へ来れば「先生」ですからねえ。はゝゝゝゝ。』
細君は苦笑ひをしながら聞いて居た。
軈て、切符を売出した。人々はぞろ/\動き出した。丁度そこへ弁護士、肥大な体躯《からだ》を動《ゆす》り乍ら、満面に笑《ゑみ》を含んで馳け付けて、挨拶する間も無く蓮太郎夫婦と一緒に埒《らち》の内へと急いだ。丑松も、入場切符を握つて、随いて入つた。
四番の上りは二十分も後れたので、それを待つ旅客は『プラットホオム』の上に群《むらが》つた。細君は大時計の下に腰掛けて茫然《ばうぜん》と眺め沈んで居る、弁護士は人々の間をあちこちと歩いて居る、丑松は蓮太郎の傍を離れないで、斯うして別れる最後の時までも自分の真情を通じたいが胸中に満ち/\て居た。どうかすると、丑松は自分の日和下駄の歯で、乾いた土の上に何か画《か》き初める。蓮太郎は柱に倚凭《よりかゝ》り乍ら、何の文字とも象徴《しるし》とも解らないやうなものが土の上に画かれるのを眺め入つて居た。
『大分汽車は後れましたね。』
といふ蓮太郎の言葉に気がついて、丑松は下駄の歯の痕《あと》を掻消して了《しま》つた。すこし離れて斯《こ》の光景《ありさま》を眺めて居た中学生もあつたが、
前へ
次へ
全122ページ中57ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング