りかざ》したかと思ふと、もう其が是畜生の最後。幽《かすか》な呻吟《うめき》を残して置いて、直に息を引取つて了つた――一撃で種牛は倒されたのである。
(四)
日の光は斯《こ》の小屋の内へ射入つて、死んで其処に倒れた種牛と、多忙《いそが》しさうに立働く人々の白い上被《うはつぱり》とを照した。屠手の頭は鋭い出刃庖丁を振つて、先づ牛の咽喉《のど》を割《さ》く。尾を牽《ひ》くものは直に尾を捨て、細引を持つものは細引を捨てゝ、いづれも牛の上に登つた。多勢の壮丁《わかもの》が力に任せ、所嫌はず踏付けるので、血潮は割かれた咽喉を通して紅《あか》く板敷の上へ流れた。咽喉から腹、腹から足、と次第に黒い毛皮が剥取《はぎと》られる。膏と血との臭気《にほひ》は斯の屠牛場に満ち溢《あふ》れて来た。
他の二頭の佐渡牛が小屋の内へ引入れられて、撃《う》ち殺されたのは間も無くであつた。斯の可傷《いたま》しい光景《ありさま》を見るにつけても、丑松の胸に浮ぶは亡くなつた父のことで。丑松は考深い目付を為乍《しなが》ら、父の死を想《おも》ひつゞけて居ると、軈て種牛の毛皮も悉皆《すつかり》剥取られ、角も撃ち落され、脂肪に包まれた肉身《なかみ》からは湯気のやうな息の蒸上《むしのぼ》るさまも見えた。屠手の頭は手も庖丁も紅く血潮に交《まみ》れ乍ら、あちこちと小屋の内を廻つて指揮《さしづ》する。そこには竹箒《たけばうき》で牛の膏《あぶら》を掃いて居るものがあり、こゝには砥石を出して出刃を磨いで居るものもあつた。赤い佐渡牛は引割と言つて、腰骨《こしぼね》を左右に切開かれ、其骨と骨との間へ横木を入れられて、逆方《さかさま》に高く釣るし上げられることになつた。
『そら、巻くぜ。』と一人の屠手は天井にある滑車《くるま》を見上げ乍ら言つた。
見る/\小屋の中央《まんなか》には、巨大《おほき》な牡牛の肉身《からだ》が釣るされて懸つた。叔父も、蓮太郎も、弁護士も、互に顔を見合せて居た。一人の屠手は鋸《のこぎり》を取出した、脊髄《あばら》を二つに引割り始めたのである。
回向《ゑかう》するやうな持主の目は種牛から離れなかつた。種牛は最早《もう》足さへも切離された。牧場の草踏散らした双叉《ふたまた》の蹄《つめ》も、今は小屋から土間の方へ投出《はふりだ》された。灰紫色の膜に掩《おほ》はれた臓腑は、丁度斯う大風呂敷の包のやうに、べろ/\した儘《まゝ》で其処に置いてある。三人の屠手は互に庖丁を入れて、骨に添ふて肉を切開くのであつた。
烈しい追憶《おもひで》は、復た/\丑松の胸中を往来し始めた。『忘れるな』――あゝ、その熱い臨終の呼吸は、どんなに深い響となつて、生残る丑松の骨の膸《ずゐ》までも貫徹《しみとほ》るだらう。其を考へる度に、亡くなつた父が丑松の胸中に復活《いきかへ》るのである。急に其時、心の底の方で声がして、丑松を呼び警《いまし》めるやうに聞えた。『丑松、貴様は親を捨てる気か。』と其声は自分を責めるやうに聞えた。
『貴様は親を捨てる気か。』
と丑松は自分で自分に繰返して見た。
成程《なるほど》、自分は変つた。成程、一にも二にも父の言葉に服従して、それを器械的に遵奉《じゆんぽう》するやうな、其様《そん》な児童《こども》では無くなつて来た。成程、自分の胸の底は父ばかり住む世界では無くなつて来た。成程、父の厳しい性格を考へる度に、自分は反つて反対《あべこべ》な方へ逸出《ぬけだ》して行つて、自由自在に泣いたり笑つたりしたいやうな、其様《そん》な思想《かんがへ》を持つやうに成つた。あゝ、世の無情を憤《いきどほ》る先輩の心地《こゝろもち》と、世に随へと教へる父の心地と――その二人の相違は奈何《どんな》であらう。斯う考へて、丑松は自分の行く道路《みち》に迷つたのである。
気がついて我に帰つた時は、蓮太郎が自分の傍に立つて居た。いつの間にか巡査も入つて来て、獣医と一緒に成つて眺めて居た。見れば種牛は股《もゝ》から胴へかけて四つの肉塊《かたまり》に切断《たちき》られるところ。右の前足の股の肉は、既に天井から垂下《たれさが》る細引に釣るされて、海綿を持つた一人の屠手が頻と其血を拭ふのであつた。斯うして巨大《おほき》な種牛の肉体《からだ》は実に無造作に屠《ほふ》られて了《しま》つたのである。屠手の頭が印判を取出して、それぞれの肉の上へ押して居るかと見るうちに、一方では引取りに来た牛肉屋の丁稚《でつち》、編席《アンペラ》敷いた箱を車の上に載せて、威勢よく小屋の内へがら/\と引きこんだ。
『十二貫五百。』
といふ声は小屋の隅の方に起つた。
『十一貫七百。』
とまた。
屠《ほふ》られた種牛の肉は、今、大きな秤《はかり》に懸けられるのである、屠手の一人が目方を読み上げる度に、牛肉屋の亭
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