内に押籠《おしこ》められたと同じやうに、一刻々々と近いて行く性命《いのち》の終を翹望《まちのぞ》んで居た。丑松は今、叔父や持主と一緒に、斯《この》繋留場の柵《さく》の前に立つたのである。持主の言草ではないが、『畜生の為たこと』と思へば、別に腹が立つの何のといふ其様《そん》な心地《こゝろもち》には成らないかはりに、可傷《いたま》しい父の最後、牧場の草の上に流れた血潮――堪へがたい追憶《おもひで》の情は丑松の胸に浮んで来たのである。見れば他のは佐渡牛といふ種類で、一頭は黒く、一頭は赤く、人間の食慾を満すより外には最早《もう》生きながらへる価値《ねうち》も無い程に痩《や》せて、其|憔悴《みすぼら》しさ。それに比べると、種牛は体格も大きく、骨組も偉《たくま》しく、黒毛艶々として美しい雑種。持主は柵の横木を隔てゝ、其鼻面を撫でゝ見たり、咽喉《のど》の下を摩《さす》つてやつたりして、
『わりや(汝《なんぢ》は)飛んでもねえことを為て呉れたなあ。何も俺だつて、好んで斯様《こん》な処へ貴様を引張つて来た訳ぢやねえ――是といふのも自業自得《じごふじとく》だ――左様《さう》思つて絶念《あきら》めろよ。』
吾児に因果でも言含めるやうに掻口説《かきくど》いて、今更|別離《わかれ》を惜むといふ様子。
『それ、こゝに居なさるのが瀬川さんの子息《むすこ》さんだ。御詑《おわび》をしな。御詑をしな。われ(汝)のやうな畜生だつて、万更|霊魂《たましひ》の無えものでも有るめえ。まあ俺の言ふことを好く覚えて置いて、次の生《よ》には一層《もつと》気の利いたものに生れ変つて来い。』
斯《か》う言ひ聞かせて、軈《やが》て持主は牛の来歴を二人に語つた。現に今、多くを飼養して居るが、是《これ》に勝《まさ》る血統《ちすぢ》のものは一頭も無い。父牛は亜米利加《アメリカ》産、母牛は斯々《しか/″\》、悪い癖さへ無くば西乃入《にしのいり》牧場の名牛とも唄はれたであらうに、と言出して嘆息した。持主は又|附加《つけた》して、斯《この》種牛の肉の売代《うりしろ》を分けて、亡くなつた牧夫の追善に供へたいから、せめて其で仏の心を慰めて呉れといふことを話した。
其時獣医が入つて来て、鳥打帽を冠つた儘、人々に挨拶する。つゞいて、牛肉屋の亭主も入つて来たは、屠《つぶ》された後の肉を買取る為であらう。間も無く蓮太郎、弁護士の二人も、叔父や丑松と一緒になつて、庭に立つて眺めたり話したりした。
『むゝ、彼《あれ》が御話のあつた種牛ですね。』と蓮太郎は小声で言つた。人々は用意に取掛かると見え、いづれも白の上被《うはつぱり》、冷飯草履は脱いで素足に尻端折。笑ふ声、私語《さゝや》く声は、犬の鳴声に交つて、何となく構内は混雑して来たのである。
いよ/\種牛は引出されることになつた。一同の視線は皆な其方へ集つた。今迄沈まりかへつて居た二頭の佐渡牛は、急に騒ぎ初めて、頻と頭を左右に振動かす。一人の屠手は赤い方の鼻面を確乎《しつか》と制《おさ》へて、声を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげま》して制したり叱つたりした。畜生ながらに本能《むし》が知らせると見え、逃げよう/\と焦り出したのである。黒い佐渡牛は繋がれたまゝ柱を一廻りした。死地に引かれて行く種牛は寧《むし》ろ冷静《おちつ》き澄ましたもので、他の二頭のやうに悪※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《わるあがき》を為《す》るでも無く、悲しい鳴声を泄《も》らすでも無く、僅かに白い鼻息を見せて、悠々《いう/\》と獣医の前へ進んだ。紫色の潤《うる》みを帯びた大きな目は傍で観て居る人々を睥睨《へいげい》するかのやう。彼の西乃入の牧場を荒《あば》れ廻つて、丑松の父を突殺した程の悪牛では有るが、斯《か》うした潔《いさぎよ》い臨終の光景《ありさま》は、又た人々に哀憐《あはれみ》の情を催《おこ》させた。叔父も、丑松もすくなからず胸を打たれたのである。獣医はあちこちと廻つて歩き乍ら、種牛の皮を撮《つま》んで見たり、咽喉《のど》を押へて見たり、または角を叩《たゝ》いて見たりして、最後に尻尾を持上たかと思ふと、検査は最早《もう》其で済んだ。屠手は総懸りで寄つて群《たか》つて、『しツ/\』と声を揚げ乍ら、無理無体に屠殺の小屋の方へ種牛を引入れた。屠手の頭《かしら》は油断を見澄まして、素早く細引を投げ搦《から》む。※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と音して牛の身体が板敷の上へ横に成つたは、足と足とが引締められたからである。持主は茫然《ばうぜん》として立つた。丑松も考深い目付をして眺め沈んで居た。やがて、種牛の眉間《みけん》を目懸けて、一人の屠手が斧《をの》(一方に長さ四五寸の管《くだ》があつて、致命傷を与へるのは是《この》管である)を振翳《ふ
前へ
次へ
全122ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング