かせられたりしたものだが、今となつて考へて見ると、親兄弟程|難有《ありがた》いものは無えぞよ。仮令《たとひ》世界中の人が見放しても、親兄弟は捨てねえからなあ。兄貴を忘れちやならねえと言ふのは――其処だはサ。』
暫時《しばらく》二人は無言で歩いた。
『忘れるなよ。』と叔父は復た初めた。『何程《どのくれえ》まあ兄貴もお前の為に心配して居たものだか。ある時、俺に、「丑松も今が一番危え時だ。斯うして山の中で考へたと、世間へ出て見たとは違ふから、そこを俺が思つてやる。なか/\他人の中へ突出されて、内兜《うちかぶと》を見透《みす》かされねえやうに遂行《やりと》げるのは容易ぢやねえ。何卒《どうか》してうまく行《や》つて呉れゝば可《いゝ》が――下手に学問なぞをして、つまらねえ思想《かんがへ》を起さなければ可《いゝ》が――まあ、三十に成つて見ねえ内は、安心が出来ねえ。」と斯ういふから、「なあに、大丈夫――丑松のことなら俺が保証する。」と言つてやつたよ。すると、兄貴は首を振つて、「どうも不可《いかねえ》もので、親の悪いところばかり子に伝はる。丑松も用心深いのは好《いゝ》が、然し又、あんまり用心深過ぎて反つて疑はれるやうな事が出来やすまいか。」としきりに其を言ふ。其時俺が、「左様《さう》心配した日には際限《きり》が無え。」と笑つたことサ。はゝゝゝゝ。』と思出したやうに慾の無い声で笑つて、軈て気を変へて、『しかし、能くまあ、お前も是迄に漕付けて来た。最早大丈夫だ。全くお前には其丈の徳が具《そな》はつて居るのだ。なにしろ用心するに越したことはねえぞよ。奈何《どん》な先生だらうが、同じ身分の人だらうが、決して気は許せねえ――そりやあ、もう、他人と親兄弟とは違ふからなあ。あゝ、兄貴の生きてる時分には、牧場から下つて来る、俺や婆さんの顔を見る、直にお前の噂《うはさ》だつた。もう兄貴は居ねえ。是からは俺と婆さんと二人ぎりで、お前の噂をして楽むんだ。考へて見て呉れよ、俺も子は無しサ――お前より外に便りにするものは無えのだから。』
(三)
例の種牛は朝のうちに屠牛場《とぎうば》へ送られた。種牛の持主は早くから詰掛けて、叔父と丑松とを待受けて居た。二人は、空車引いて馳《か》けて行く肉屋の丁稚《でつち》の後に随いて、軈て屠牛場の前迄行くと、門の外に持主、先《ま》づ見るより、克《よ》く来て呉れたを言ひ継《つゞ》ける。心から老牧夫の最後を傷《いた》むといふ情合《じやうあひ》は、斯持主の顔色に表れるのであつた。『いえ。』と叔父は対手の言葉を遮《さへぎ》つて、『全く是方《こちら》の不注意《てぬかり》から起つた事なんで、貴方《あんた》を恨《うら》みる筋は些少《ちつと》もごはせん。』とそれを言へば、先方《さき》は猶々《なほ/\》痛み入る様子。『私はへえ、面目なくて、斯《か》うして貴方等《あんたがた》に合せる顔も無いのでやす――まあ畜生の為《し》たことだからせえて(せえては、しての訛《なまり》、農夫の間に用ゐられる)、御災難と思つて絶念《あきら》めて下さるやうに。』とかへす/″\言ふ。是処《こゝ》は上田の町はづれ、太郎山の麓に迫つて、新しく建てられた五棟ばかりの平屋。鋭い目付の犬は五六匹門外に集つて来て、頻《しきり》に二人の臭気《にほひ》を嗅いで見たり、低声に※[#「口+胡」、第4水準2−4−15]《うな》つたりして、やゝともすれば吠《ほ》え懸りさうな気勢《けはひ》を示すのであつた。
持主に導かれて、二人は黒い門を入つた。内に庭を隔《へだ》てゝ、北は検査室、東が屠殺の小屋である。年の頃五十余のでつぷり肥つた男が人々の指図をして居たが、其老練な、愛嬌《あいけう》のある物の言振で、屠手《としゆ》の頭《かしら》といふことは知れた。屠手として是処に使役《つか》はれて居る壮丁《わかもの》は十人|計《ばか》り、いづれ紛《まが》ひの無い新平民――殊に卑賤《いや》しい手合と見えて、特色のある皮膚の色が明白《あり/\》と目につく。一人々々の赤ら顔には、烙印《やきがね》が押当てゝあると言つてもよい。中には下層の新平民に克《よ》くある愚鈍な目付を為乍《しなが》ら是方《こちら》を振返るもあり、中には畏縮《いぢけ》た、兢々《おづ/\》とした様子して盗むやうに客を眺めるもある。目鋭《めざと》い叔父は直に其《それ》と看《み》て取つて、一寸右の肘《ひぢ》で丑松を小衝《こづ》いて見た。奈何して丑松も平気で居られよう。叔父の肘が触《さは》るか触らないに、其暗号は電気《エレキ》のやうに通じた。幸ひ案じた程でも無いらしいので、漸《やつ》と安心して、それから二人は他の談話《はなし》の仲間に入つた。
繋留場には、種牛の外に、二頭の牡牛も繋《つな》いであつて、丁度死刑を宣告された罪人が牢獄《ひとや》の
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