いゝ》のかしらん、と丑松はそれを案じつゞけて、時々蓮太郎を待合せては、一緒に遅く歩くやうに為たが、まあ素人目《しろうとめ》で眺めたところでは格別|気息《いき》の切れるでも無いらしい。漸《やうや》く安心して、軈《やが》て話し/\行く連の二人の後姿は、と見ると其時は凡《およ》そ一町程も離れたらう。急に日があたつて、湿《しめ》つた道路も輝き初めた。温和《やはらか》に快暢《こゝろよ》い朝の光は小県《ちひさがた》の野に満ち溢《あふ》れて来た。
あゝ、告白《うちあ》けるなら、今だ。
丑松に言はせると、自分は決して一生の戒を破るのでは無い。是《これ》が若《も》し世間の人に話すといふ場合ででも有つたら、それこそ今迄の苦心も水の泡であらう。唯|斯人《このひと》だけに告白けるのだ。親兄弟に話すも同じことだ。一向差支が無い。斯う自分で自分に弁解《いひほど》いて見た。丑松も思慮の無い男では無し、彼程《あれほど》堅い父の言葉を忘れて了《しま》つて、好んで死地に陥るやうな、其様《そん》な愚《おろか》な真似を為《す》る積りは無かつたのである。
『隠せ。』
といふ厳粛な声は、其時、心の底の方で聞えた。急に冷《つめた》い戦慄《みぶるひ》が全身を伝つて流れ下る。さあ、丑松もすこし躊躇《ためら》はずには居られなかつた。『先生、先生』と口の中で呼んで、どう其を切出したものかと悶《もが》いて居ると、何か目に見えない力が背後《うしろ》に在つて、妙に自分の無法を押止めるやうな気がした。
『忘れるな』とまた心の底の方で。
(二)
『瀬川君、君は恐しく考へ込んだねえ。』と蓮太郎は丑松の方を振返つて見た。『時に、大分後れましたよ。奈何《どう》ですか、少許《すこし》急がうぢや有ませんか。』
斯う言はれて、丑松も其後に随《つ》いて急いだ。
間も無く二人は連に追付いた。鳥のやうに逃げ易い機会は捕まらなかつた。いづれ未《ま》だ先輩と二人ぎりに成る時は有るであらう、と其を丑松は頼みに思ふのである。
日は次第に高くなつた。空は濃く青く透《す》き澄《とほ》るやうになつた。南の方《かた》に当つて、ちぎれ/\な雲の群も起る。今は温暖《あたゝか》い光の為に蒸《む》されて、野も煙り、岡も呼吸し、踏んで行く街道の土の灰色に乾く臭気《にほひ》も心地《こゝろもち》が好い。浅々と萌初《もえそ》めた麦畠は、両側に連つて、奈何《どんな》に春待つ心の烈しさを思はせたらう。斯《か》うして眺《なが》め/\行く間にも、四人の眼に映る田舎《ゐなか》が四色で有つたのはをかしかつた。弁護士は小作人と地主との争闘《あらそひ》を、蓮太郎は労働者の苦痛《くるしみ》と慰藉《なぐさめ》とを、叔父は『えご』、『山牛蒡《やまごばう》』、『天王草《てんわうぐさ》』、又は『水沢瀉《みづおもだか》』等の雑草に苦しめられる耕作の経験から、収穫《とりいれ》に関係の深い土質の比較、さては上州地方の平野に住む農夫に比べて斯の山の上の人々の粗懶《なげやり》な習慣なぞを――流石《さすが》に三人の話は、生活といふことを離れなかつたが、同じ田舎を心に描いても、丑松のは若々しい思想《かんがへ》から割出して、働くばかりが田舎ではないと言つたやうな風に観察する。斯《か》ういふ思ひ/\の話に身が入つて、四人は疲労《つかれ》を忘れ乍ら上田の町へ入つた。
上田には弁護士の出張所も設けて有る。そこには蓮太郎の細君が根津から帰る夫を待受けて居たので。蓮太郎と弁護士とは、一寸立寄つて用事を済《す》ました上、また屠牛場で一緒に成るといふことにしよう、其種牛の最後をも見よう――斯《か》ういふ約束で別れた。丑松は叔父と連立つて一歩《ひとあし》先へ出掛けた。
屠牛場近く行けば行く程、亡くなつた牧夫のことが烈しく二人の胸に浮んで来た。二人の話は其|追懐《おもひで》で持切つた。他人が居なければ遠慮も要《い》らず、今は何を話さうと好自由《すきじいう》である。
『なあ、丑松。』と叔父は歩き乍ら嘆息して、『へえ、もう今日で六日目だぞよ。兄貴が亡くなる、お前《めへ》がやつて来る。葬式《おじやんぼん》を出す、御苦労招びから、礼廻りと、丁度今日で六日目だ。あゝ、明日は最早《もう》初七日だ。日数の早く経《た》つには魂消《たまげ》て了ふ。兄貴に別れたのは、つい未だ昨日のやうにしか思はれねえがなあ。』
丑松は黙つて考へ乍ら随いて行つた。叔父は言葉を継いで、
『真実《ほんたう》に世の中は思ふやうに行かねえものさ。兄貴も、是から楽をしようといふところで、彼様《あん》な災難に罹るなんて。まあ、金を遺《のこ》すぢや無し、名を遺すぢや無し、一生苦労を為つゞけて、其苦労が誰の為かと言へば――畢竟《つまり》、お前や俺の為だ。俺も若え時は、克《よ》く兄貴と喧嘩して、擲《なぐ》られたり、泣
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