分と同じ新平民の、其人だけに告白けるのに、危い、恐しいやうなことが何処にあらう。
『どうしても言はないのは虚偽《うそ》だ。』
 と丑松は心に羞《は》ぢたり悲んだりした。
 そればかりでは無い。勇み立つ青春の意気も亦《ま》た丑松の心に強い刺激を与へた。譬《たと》へば、丑松は雪霜の下に萌《も》える若草である。春待つ心は有ながらも、猜疑《うたがひ》と恐怖《おそれ》とに閉ぢられて了《しま》つて、内部《なか》の生命《いのち》は発達《のび》ることが出来なかつた。あゝ、雪霜が日にあたつて、溶けるといふに、何の不思議があらう。青年が敬慕の情を心ゆく先輩の前に捧げて、活きて進むといふに、何の不思議があらう。見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は蓮太郎の感化を享《う》けて、精神の自由を慕はずには居られなかつたのである。言ふべし、言ふべし、それが自分の進む道路《みち》では有るまいか。斯う若々しい生命が丑松を励ますのであつた。
『よし、明日は先生に逢つて、何もかも打開《ぶちま》けて了はう。』
 と決心して、姫子沢の家をさして急いだ。
 其晩はお妻の父親《おやぢ》がやつて来て、遅くまで炉辺《ろばた》で話した。叔父は蓮太郎のことに就いて別に深く掘つて聞かうとも為なかつた。唯丑松が寝床の方へ行かうとした時、斯ういふ問を掛けた。
『丑松――お前《めへ》は今日の御客様《おきやくさん》に、何にも自分のことを話しやしねえだらうなあ。』
 と言はれて、丑松は叔父の顔を眺めて、
『誰が其様《そん》なことを言ふもんですか。』
 と答へるには答へたが、それは本心から出た言葉では無いのであつた。
 寝床に入つてからも、丑松は長いこと眠られなかつた。不思議な夢は来て、眼前《めのまへ》を通る。其人は見納めの時の父の死顔であるかと思ふと、蓮太郎のやうでもあり、病の為に蒼《あを》ざめた蓮太郎の顔であるかと思ふと、お妻のやうでもあつた。あの艶を帯《も》つた清《すゞ》しい眸《ひとみ》、物言ふ毎にあらはれる皓歯《しらは》、直に紅《あか》くなる頬――その真情の外部《そと》に輝き溢《あふ》れて居る女らしさを考へると、何時の間にか丑松はお志保の俤《おもかげ》を描いて居たのである。尤《もつと》もこの幻影《まぼろし》は長く後まで残らなかつた。払暁《あけがた》になると最早《もう》忘れて了つて、何の夢を見たかも覚えて居ない位であつた。


   第拾章

       (一)

 いよ/\苦痛《くるしみ》の重荷を下す時が来た。
 丁度蓮太郎は弁護士と一緒に、上田を指して帰るといふので、丑松も同行の約束した。それは父を傷《きずつ》けた種牛が上田の屠牛場《とぎうば》へ送られる朝のこと。叔父も、丑松も其立会として出掛ける筈になつて居たので。昨夜の丑松の決心――あれを実行するには是上《このうへ》も無い好い機会《しほ》。復《ま》た逢《あ》はれるのは何時のことやら覚束《おぼつか》ない。どうかして叔父や弁護士の聞いて居ないところで――唯先輩と二人ぎりに成つた時に――斯う考へて、丑松は叔父と一緒に出掛ける仕度をしたのであつた。
 上田街道へ出ようとする角のところで、そこに待合せて居る二人と一緒になつた。丑松は叔父を弁護士に紹介し、それから蓮太郎にも紹介した。
『先生、これが私の叔父です。』
 と言はれて、叔父は百姓らしい大な手を擦《も》み乍《なが》ら、
『丑松の奴がいろ/\御世話様に成りますさうで――昨日《さくじつ》はまた御出下すつたさうでしたが、生憎《あいにく》と留守にいたしやして。』
 斯《か》ういふ挨拶をすると、蓮太郎は丁寧に亡《な》くなつた人の弔辞《くやみ》を述べた。
 四人は早く発《た》つた。朝じめりのした街道の土を踏んで、深い霧の中を辿《たど》つて行つた時は、遠近《をちこち》に鶏の鳴き交す声も聞える。其日は春先のやうに温暖《あたゝか》で、路傍の枯草も蘇生《いきかへ》るかと思はれる程。灰色の水蒸気は低く集つて来て、僅かに離れた杜《もり》の梢《こずゑ》も遠く深く烟《けぶ》るやうに見える。四人は後になり前になり、互に言葉を取交し乍ら歩いた。就中《わけても》、弁護士の快活な笑声は朝の空気に響き渡る。思はず足も軽く道も果取《はかど》つたのである。
 東上田へ差懸つた頃、蓮太郎と丑松の二人は少許《すこし》連《つれ》に後《おく》れた。次第に道路《みち》は明くなつて、ところ/″\に青空も望まれるやうに成つた。白い光を帯び乍ら、頭の上を急いだは、朝雲の群。行先《ゆくて》にあたる村落も形を顕《あらは》して、草葺《くさぶき》の屋根からは煙の立ち登る光景《さま》も見えた。霧の眺めは、今、おもしろく晴れて行くのである。
 蓮太郎は苦しい様子も見せなかつた。この石塊《いしころ》の多い歩き難い道を彼様《あゝ》して徒歩《ひろ》つても可《
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