。』と丑松は飯櫃《めしびつ》を引取つて、気《いき》の出るやつを盛り始めた。
『どうも済《す》みません。各自《めい/\》勝手にやることにしようぢや有ませんか。まあ、斯《か》うして膳に向つて見ると、あの師範校の食堂を思出さずには居られないねえ。』
 と笑つて、蓮太郎は話し/\食つた。丑松も骨離《ほねばなれ》の好い鮠《はや》の肉を取つて、香ばしく焼けた味噌の香を嗅ぎ乍ら話した。
『あゝ。』と蓮太郎は箸持つ手を膝の上に載せて、『どうも当世紳士の豪《えら》いには驚いて了《しま》ふ――金といふものゝ為なら、奈何《どん》なことでも忍ぶのだから。瀬川君、まあ、聞いて呉れたまへ。彼の通り高柳が体裁を飾つて居ても、実は非常に内輪の苦しいといふことは、僕も聞いて居た。借財に借財を重ね、高利貸には責められる、世間への不義理は嵩《かさ》む、到底今年選挙を争ふ見込なぞは立つまいといふことは、聞いて居た。しかし君、いくら窮境に陥つたからと言つて、金を目的《めあて》に結婚する気に成るなんて――あんまり根性が見え透《す》いて浅猿《あさま》しいぢやないか。あるひは、彼男に言はせたら、六左衛門だつて立派な公民だ、其娘を貰ふのに何の不思議が有る、親子の間柄で選挙の時なぞに助けて貰ふのは至当《あたりまへ》ぢやないか――斯う言ふかも知れない。それならそれで可《いゝ》さ。階級を打破して迄《まで》も、気に入つた女を貰ふ位の心意気が有るなら、又面白い。何故そんなら、狐鼠々々《こそ/\》と祝言《しうげん》なぞを為るんだらう。何故そんなら、隠れてやつて来て、また隠れて行くやうな、男らしくない真似を為るんだらう。苟《いやし》くも君、堂々たる代議士の候補者だ。天下の政治を料理するなどと長広舌を振ひ乍ら、其人の生涯を見れば奈何《どう》だらう。誰やらの言草では無いが、全然《まるで》紳士の面を冠つた小人の遣方だ――情ないぢやないか。成程《なるほど》世間には、金に成ることなら何でもやる、買手が有るなら自分の一生でも売る、斯《か》ういふ量見の人はいくらも有るさ。しかし、彼男のは、売つて置いて知らん顔をして居よう、といふのだから酷《はなはだ》しい。まあ、君、僕等の側に立つて考へて見て呉れたまへ――是程《これほど》新平民といふものを侮辱した話は無からう。』
 暫時《しばらく》二人は言葉を交さないで食つた。軈てまた蓮太郎は感慨に堪へないと言ふ風で、病気のことなぞはもう忘れて居るかのやうに、
『彼男《あのをとこ》も彼男なら、六左衛門も六左衛門だ。そんなところへ娘を呉れたところで何が面白からう。是《これ》から東京へでも出掛けた時に、自分の聟は政事家だと言つて、吹聴する積りなんだらうが、あまり寝覚の好い話でも無からう。虚栄心にも程が有るさ。ちつたあ娘のことも考へさうなものだがなあ。』
 斯う言つて蓮太郎は考深い目付をして、孤《ひと》り思に沈むといふ様子であつた。
 聞いて見れば聞いて見るほど、彼の政事家の内幕にも驚かれるが、又、この先輩の同族を思ふ熱情にも驚かれる。丑松は、弱い体躯《からだ》の内に燃える先輩の精神の烈しさを考へて、一種の悲壮な感想《かんじ》を起さずには居られなかつた。実際、蓮太郎の談話《はなし》の中には丑松の心を動かす力が籠つて居たのである。尤《もつと》も、病のある人ででも無ければ、彼様《あゝ》は心を傷めまい、と思はれるやうな節々が時々其言葉に交つて聞えたので。

       (四)

 到頭丑松は言はうと思ふことを言はなかつた。吉田屋を出たのは宵《よひ》過ぎる頃であつたが、途々それを考へると、泣きたいと思ふ程に悲しかつた。何故、言はなかつたらう。丑松は歩き乍ら、自分で自分に尋ねて見る。亡父《おやぢ》の言葉も有るから――叔父も彼様《あゝ》忠告したから――一旦秘密が自分の口から泄《も》れた以上は、それが何時《いつ》誰の耳へ伝はらないとも限らない、先輩が細君へ話す、細君はまた女のことだから到底秘密を守つては呉れまい、斯《か》ういふことに成ると、それこそ最早《もう》回復《とりかへし》が付かない――第一、今の場合、自分は穢多であると考へたく無い、是迄も普通の人間で通つて来た、是《これ》から将来《さき》とても無論普通の人間で通りたい、それが至当な道理であるから――
 種々《いろ/\》弁解《いひわけ》を考へて見た。
 しかし、斯ういふ弁解は、いづれも後から造《こしら》へて押付けたことで、それだから言へなかつたとは奈何しても思はれない。残念乍ら、丑松は自分で自分を欺いて居るやうに感じて来た。蓮太郎にまで隠して居るといふことは、実は丑松の良心が許さなかつたのである。
 あゝ、何を思ひ、何を煩ふ。決して他の人に告白《うちあ》けるのでは無い。唯あの先輩だけに告白けるのだ。日頃自分が慕つて居る、加《しか》も自
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