つけて遣り乍ら、『僕がまだ長野に居る時分、丁度修学旅行が有つて、生徒と一緒に上州の方へ出掛けたことが有りましたツけ。まだ覚えて居るが、彼《あ》の時の投票は、僕がそれ大食家さ。しかし大食家と言はれる位に、彼の頃は壮健《たつしや》でしたよ。それからの僕の生涯は、実に種々《いろ/\》なことが有ましたねえ。克《よ》くまあ僕のやうな人間が斯うして今日迄生きながらへて来たやうなものさ。』
『先生、もう沢山です。』
『何だねえ、今始めたばかりぢや無いか。まだ、君、垢が些少《ちつと》も落ちやしない。』
と蓮太郎は丁寧に丑松の背中を洗つて、終《しまひ》に小桶の中の温い湯を掛けてやつた。遣ひ捨ての湯水は石鹸の泡に交つて、白くゆるく板敷の上を流れて行つた。
『君だから斯様《こん》なことを御話するんだが、』と蓮太郎は思出したやうに、『僕は仲間のことを考へる度に、実に情ないといふ心地《こゝろもち》を起さずには居られない。御恥しい話だが、思想の世界といふものは、未だ僕等の仲間には開けて居ないのだね。僕があの師範校を出た頃には、それを考へて、随分暗い月日を送つたことも有ましたよ。病気になつたのも、実は其結果さ。しかし病気の為に、反《かへ》つて僕は救はれた。それから君、考へてばかり居ないで、働くといふ気になつた。ホラ、君の読んで下すつたといふ「現代の思潮と下層社会」――あれを書く頃なぞは、健康《たつしや》だといふ日は一日も無い位だつた。まあ、後日新平民のなかに面白い人物でも生れて来て、あゝ猪子といふ男は斯様《こん》なものを書いたかと、見て呉れるやうな時が有つたら、それでもう僕なぞは満足するんだねえ。むゝ、その踏台さ――それが僕の生涯《しやうがい》でもあり、又|希望《のぞみ》でもあるのだから。』
(三)
言はう/\と思ひ乍ら、何か斯《か》う引止められるやうな気がして、丑松は言はずに風呂を出た。まだ弁護士は帰らなかつた。夕飯の用意にと、蓮太郎が宿へ命じて置いたは千曲川の鮠《はや》、それは上田から来る途中で買取つたとやらで、魚田楽《ぎよでん》にこしらへさせて、一緒に初冬の河魚の味を試みたいとのこと。仕度するところと見え、摺鉢《すりばち》を鳴らす音は台所の方から聞える。炉辺《ろばた》で鮠の焼ける香は、ぢり/\落ちて燃える魚膏《あぶら》の煙に交つて、斯の座敷までも甘《うま》さうに通つて来た。
蓮太郎は鞄《かばん》の中から持薬を取出した。殊に湯上りの顔色は病気のやうにも見えなかつた。嗅ぐともなしに『ケレオソオト』のにほひを嗅いで見て、軈《やが》て高柳のことを言出す。
『して見ると、瀬川君はあの男と一緒に飯山を御出掛でしたね。』
『どうも不思議だとは思ひましたよ。』と丑松は笑つて、『妙に是方《こちら》を避《よ》けるといふやうな風でしたから。』
『そこがそれ、心に疚《やま》しいところの有る証拠さ。』
『今考へても、彼の外套《ぐわいたう》で身体を包んで、隠れて行くやうな有様が、目に見えるやうです。』
『はゝゝゝゝ。だから、君、悪いことは出来ないものさ。』
と言つて、それから蓮太郎は聞いて来た一伍一什《いちぶしじゆう》を丑松に話した。高柳が秘密に六左衛門の娘を貰つたといふ事実は、妙なところから出たとのこと。すこし調べることがあつて、信州で一番古い秋葉村の穢多町(上田の在にある)、彼処へ蓮太郎が尋ねて行くと、あの六左衛門の親戚で加《しか》も讐敵《かたき》のやうに仲の悪いとかいふ男から斯の話が泄《も》れたとのこと。蓮太郎が弁護士と一緒に、今朝この根津村へ入つた時は、折も折、丁度高柳夫婦が新婚旅行にでも出掛けようとするところ。無論|先方《さき》では知るまいが、確に是方《こちら》では後姿を見届けたとのことであつた。
『実に驚くぢやないか。』と蓮太郎は嘆息した。『瀬川君、君はまあ奈何《どう》思ふね、彼の男の心地《こゝろもち》を。これから君が飯山へ帰つて見たまへ――必定《きつと》あの男は平気な顔して結婚の披露を為るだらうから――何処《どこ》か遠方の豪家からでも細君を迎へたやうに細工《こしら》へるから――そりやあもう新平民の娘だとは言ふもんぢやないから。』
斯ういふ話を始めたところへ、下女が膳を持運んで来た。皿の上の鮠《はや》は焼きたての香を放つて、空腹《すきばら》で居る二人の鼻を打つ。銀色の背、樺《かば》と白との腹、その鮮《あたら》しい魚が茶色に焼け焦げて、ところまんだら味噌の能《よ》く付かないのも有つた。いづれも肥え膏《あぶら》づいて、竹の串に突きさゝれてある。流石《さすが》に嗅ぎつけて来たと見え、一匹の小猫、下女の背後《うしろ》に様子を窺《うかゞ》ふのも可笑《をか》しかつた。御給仕には及ばないを言はれて、下女は小猫を連れて出て行く。
『さあ、先生、つけませう
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