主は鉛筆を舐《な》めて、其を手帳へ書留めた。
 やがて其日の立会も済み、持主にも別れを告げ、人々と一緒に斯の屠牛場から引取らうとした時、もう一度丑松は小屋の方を振返つて見た。屠手のあるものは残物の臓腑を取片付ける、あるものは手桶《てをけ》に足を突込んで牛の血潮を洗ひ落す、種牛の片股は未《ま》だ釣るされた儘で、黄な膏《あぶら》と白い脂肪とが日の光を帯びて居た。其時は最早あの可傷《いたま》しい回想《おもひで》の断片といふ感想《かんじ》も起らなかつた。唯大きな牛肉の塊としか見えなかつた。


   第拾壱章

       (一)

『先《ま》づ好かつた。』と叔父は屠牛場の門を出た時、丑松の肩を叩《たゝ》いて言つた。『先づまあ、是《これ》で御関所は通り越した。』
『あゝ、叔父さんは声が高い。』と制するやうにして、丑松は何か思出したやうに、先へ行く蓮太郎と弁護士との後姿を眺《なが》めた。
『声が高い?』叔父は笑ひ乍ら、『ふゝ、俺のやうな皺枯声《しやがれごゑ》が誰に聞えるものかよ。それは左様《さう》と、丑松、へえ最早《もう》是で安心だ。是処《こゝ》まで漕付《こぎつ》ければ、最早大丈夫だ。どのくれえ、まあ、俺も心配したらう。あゝ今夜からは三人で安気《あんき》に寝られる。』
 牛肉を満載した車は二人の傍を通過ぎた。枯々な桑畠《くはばたけ》の間には、其車の音がから/\と響き渡つて、随《つ》いて行く犬の叫び声も何となく喜ばしさうに聞える。心の好い叔父は唯訳も無く身を祝つて、顔の薄痘痕《うすあばた》も喜悦《よろこび》の為に埋もれるかのやう。奈何《どう》いふ思想《かんがへ》が来て今の世の若いものゝ胸を騒がせて居るか、其様《そん》なことはとんと叔父には解らなかつた。昔者の叔父は、斯《こ》の天気の好いやうに、唯一族が無事でさへあれば好かつた。軈《やが》て、考深い目付を為て居る丑松を促《うなが》して、昼仕度を為るために急いだのである。
 昼食《ちうじき》の後、丑松は叔父と別れて、単独《ひとり》で弁護士の出張所を訪ねた。そこには蓮太郎が細君と一緒に、丑松の来るのを待受けて居たので。尤《もつと》も、一同で楽しい談話《はなし》をするのは三時間しか無かつた。聞いて見ると細君は東京の家へ、蓮太郎と弁護士とは小諸の旅舎《やどや》まで、其日四時三分の汽車で上田を発つといふ。細君は深く夫の身の上を案じるかして、一緒に東京の方へ帰つて呉れと言出したが、蓮太郎は聞入れなかつた。もと/\友人や後進のものを先にして、家のものを後にするのが蓮太郎の主義で、今度信州に踏留まるといふのも、畢竟《つまり》は弁護士の為に尽したいから。其は細君も万々承知。夫の気象として、左様《さう》いふのは無理もない。しかし斯の山の上で、夫の病気が重りでもしたら。斯ういふ心配は深く細君の顔色に表はれる。『奥様《おくさん》、其様《そんな》に御心配無く――猪子君は私が御預りしましたから。』と弁護士が引受顔なので、細君も強ひてとは言へなかつた。
 先輩が可懐《なつか》しければ其細君までも可懐しい。斯う思ふ丑松の情は一層深くなつた。始めて汽車の中で出逢《であ》つた時からして、何となく人格の奥床《おくゆか》しい細君とは思つたが、さて打解けて話して見ると、別に御世辞が有るでも無く、左様《さう》かと言つて可厭《いや》に澄まして居るといふ風でも無い――まあ、極《ご》く淡泊《さつぱり》とした、物に拘泥《こうでい》しない気象の女と知れた。風俗《なりふり》なぞには関《かま》はない人で、是《これ》から汽車に乗るといふのに、其程《それほど》身のまはりを取修《とりつくろ》ふでも無い。男の見て居る前で、僅かに髪を撫《な》で付けて、旅の手荷物もそこ/\に取収《とりまと》めた。あの『懴悔録』の中に斯人《このひと》のことが書いてあつたのを、急に丑松は思出して、兎《と》も角《かく》も普通の良い家庭に育つた人が種族の違ふ先輩に嫁《かたづ》く迄《まで》の其二人の歴史を想像して見た。
 汽車を待つ二三時間は速《すぐ》に経《た》つた。左右《さうかう》するうちに、停車場《ステーション》さして出掛ける時が来た。流石《さすが》弁護士は忙《せは》しい商売柄、一緒に門を出ようと為《す》るところを客に捕つて、立つて時計を見乍らの訴訟話。蓮太郎は細君を連れて一歩《ひとあし》先へ出掛けた。『あゝ何時復た先生に御目に懸れるやら。』斯う独語《ひとりごと》のやうに言つて、丑松も見送り乍ら随いて行つた。せめてもの心尽し、手荷物の鞄《かばん》は提げさせて貰ふ。其様《そん》なことが丑松の身に取つては、嬉敷《うれしく》も、名残惜敷《なごりをしく》も思はれたので。
 初冬の光は町の空に満ちて、三人とも羞明《まぶし》い位であつた。上田の城跡について、人通りのすくない坂道を下りかけた時
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