つて笑つた。やがて一同暇乞ひして、斯の父の永眠の地に別離《わかれ》を告げて出掛けた。烏帽子、角間《かくま》、四阿《あづまや》、白根の山々も、今は後に隠れる。富士神社を通過《とほりす》ぎた頃、丑松は振返つて、父の墓のある方を眺めたが、其時はもう牛小屋も見えなかつた――唯、蕭条《せうでう》とした高原のかなたに当つて、細々と立登る一条《ひとすぢ》の煙の末が望まれるばかりであつた。


   第八章

       (一)

 西乃入に葬られた老牧夫の噂《うはさ》は、直に根津の村中へ伝播《ひろが》つた。尾鰭《をひれ》を付けて人は物を言ふのが常、まして種牛の為に傷けられたといふ事実は、些少《すくな》からず好奇《ものずき》な手合の心を驚かして、到《いた》る処に茶話の種となる。定めし前《さき》の世には恐しい罪を作つたことも有つたらう、と迷信の深い者は直に其を言つた。牧夫の来歴に就いても、南佐久の牧場から引移つて来た者だの、甲州生れだの、いや会津の武士の果で有るのと、種々《さま/″\》な臆測を言ひ触らす。唯《たゞ》、小諸《こもろ》の穢多町の『お頭《かしら》』であつたといふことは、誰一人として知るものが無かつたのである。
『御苦労|招《よ》び』(手伝ひに来て呉れた近所の人々を招く習慣)のあつた翌日《あくるひ》、丑松は会葬者への礼廻りに出掛けた。叔父も。姫子沢の家には叔母一人留守居。御茶漬|後《すぎ》(昼飯後)は殊更|温暖《あたゝか》く、日の光が裏庭の葱畠《ねぎばたけ》から南瓜《かぼちや》を乾し並べた縁側へ射し込んで、いかにも長閑《のどか》な思をさせる。追ふものが無ければ鶏も遠慮なく、垣根の傍に花を啄《つ》むもあり、鳴くもあり、座敷の畳に上つて遊ぶのもあつた。丁度叔母が表に出て、流のところに腰を曲《こゞ》め乍ら、鍋《なべ》を洗つて居ると、そこへ立つて丁寧に物を尋ねる一人の紳士がある。『瀬川さんの御宅は』と聞かれて、叔母は不思議さうな顔付。つひぞ見掛けぬ人と思ひ乍ら、冠つて居る手拭を脱《と》つて挨拶して見た。
『はい、瀬川は手前でごはすよ――失礼乍ら貴方《あんた》は何方様《どちらさま》で?』
『私ですか。私は猪子といふものです。』
 蓮太郎は丑松の留守に尋ねて来たのであつた。『もう追付《おつつ》け帰つて参じやせう』を言はれて、折角《せつかく》来たものを、兎《と》も角《かく》も其では御邪魔して、暫時《しばらく》休ませて頂かう、といふことに極め、軈《やが》て叔母に導かれ乍ら、草葺《くさぶき》の軒を潜《くゞ》つて入つた。日頃農夫の生活に興を寄せる蓮太郎、斯《か》うして炉辺《ろばた》で話すのが何より嬉敷《うれしい》といふ風で、煤《すゝ》けた屋根の下を可懐《なつか》しさうに眺《なが》めた。農家の習ひとして、表から裏口へ通り抜けの庭。そこには炭俵、漬物桶、又は耕作の道具なぞが雑然《ごちや/\》置き並べてある。片隅には泥の儘《まゝ》の『かびた芋』(馬鈴薯)山のやうに。炉は直ぐ上《あが》り端《はな》にあつて、焚火の煙のにほひも楽しい感想《かんじ》を与へるのであつた。年々の暦と一緒に、壁に貼付《はりつ》けた錦絵の古く変色したのも目につく。
『生憎《あいにく》と今日《こんち》は留守にいたしやして――まあ吾家《うち》に不幸がごはしたもんだで、その礼廻りに出掛けやしてなあ。』
 斯《か》う言つて、叔母は丑松の父の最後を蓮太郎に語り聞かせた。炉の火はよく燃えた。木製の自在鍵に掛けた鉄瓶《てつびん》の湯も沸々《ふつ/\》と煮立つて来たので、叔母は茶を入れて款待《もてな》さうとして、急に――まあ、記憶といふものは妙なもので、長く/\忘れて居た昔の習慣を思出した。一体普通の客に茶を出さないのは、穢多の家の作法としてある。煙草《たばこ》の火ですら遠慮する。瀬川の家も昔は斯ういふ風であつたので其を破つて普通の交際を始めたのは、斯《こ》の姫子沢へ移住《ひつこ》してから以来《このかた》。尤《もつと》も長い月日の間には、斯の新しい交際に慣れ、自然《おのづ》と出入りする人々に馴染《なじ》み、茶はおろか、物の遣り取りもして、春は草餅を贈り、秋は蕎麦粉《そばこ》を貰ひ、是方《こちら》で何とも思はなければ、他《ひと》も怪みはしなかつたのである。叔母が斯様《こん》な昔の心地《こゝろもち》に帰つたは近頃無いことで――それも其筈《そのはず》、姫子沢の百姓とは違つて気恥しい珍客――しかも突然《だしぬけ》に――昔者の叔母は、だから、自分で茶を汲む手の慄へに心付いた程。蓮太郎は其様《そん》なことゝも知らないで、さも/\甘《うま》さうに乾いた咽喉《のど》を濡《うるほ》して、さて種々《さま/″\》な談話《はなし》に笑ひ興じた。就中《わけても》、丑松がまだ紙鳶《たこ》を揚げたり独楽《こま》を廻したりして遊んだ頃の物
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