れても食はず、呼んでも姿を見せず、唯縁の下をあちこちと鳴き悲む声のあはれさ。畜生|乍《なが》らに、亡くなつた主人を慕ふかと、人々も憐んで、是《これ》から雪の降る時節にでも成らうものなら何を食つて山籠りする、と各自《てんで》に言ひ合つた。『可愛さうに、山猫にでも成るだらず。』斯う叔父は言つたのである。
 やがて人々は思ひ/\に出掛けた。番小屋を預かる男は塩を持つて、岡の上まで見送り乍ら随《つ》いて来た。十一月上旬の日の光は淋しく照して、この西乃入牧場に一層|荒寥《くわうれう》とした風趣《おもむき》を添へる。見れば小松はところ/″\。山躑躅《やまつゝじ》は、多くの草木の中に、牛の食はないものとして、反《かへ》つて一面に繁茂して居るのであるが、それも今は霜枯れて見る影が無い。何もかも父の死を冥想させる種と成る。愁《うれ》ひつゝ丑松は小山の間の細道を歩いた。父を斯《こ》の牧場に訪れたは、丁度足掛三年前の五月の下旬であつたことを思出した。それは牛の角の癢《かゆ》くなるといふ頃で、斯の枯々な山躑躅が黄や赤に咲乱れて居たことを思出した。そここゝに蕨《わらび》を采《と》る子供の群を思出した。山鳩の啼《な》く声を思出した。其時は心地《こゝろもち》の好い微風《そよかぜ》が鈴蘭(君影草とも、谷間の姫百合とも)の花を渡つて、初夏の空気を匂はせたことを思出した。父は又、岡の上の新緑を指して見せて、斯の西乃入には柴草が多いから牛の為に好いと言つたことを思出した。其青葉を食ひ、塩を嘗《な》め、谷川の水を飲めば、牛の病は多く癒《なほ》ると言つたことを思出した。父はまた附和《つけた》して、さま/″\な牧畜の経験、類を以て集る牛の性質、初めて仲間入する時の角押しの試験、畜生とは言ひ乍ら仲間同志を制裁する力、其他女王のやうに牧場を支配する一頭の牝牛なぞの物語をして、それがいかにも面白く思はれたことを思出した。
 父は斯《こ》の烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の麓に隠れたが、功名を夢見る心は一生火のやうに燃えた人であつた。そこは無欲な叔父と大に違ふところで、その制《おさ》へきれないやうな烈しい性質の為に、世に立つて働くことが出来ないやうな身分なら、寧《いつ》そ山奥へ高踏《ひつこ》め、といふ憤慨の絶える時が無かつた。自分で思ふやうに成らない、だから、せめて子孫は思ふやうにしてやりたい。自分が夢見ることは、何卒《どうか》子孫に行はせたい。よしや日は西から出て東へ入る時があらうとも、斯《この》志ばかりは堅く執《と》つて変るな。行け、戦へ、身を立てよ――父の精神はそこに在つた。今は丑松も父の孤独な生涯を追懐して、彼《あ》の遺言に籠る希望と熱情とを一層力強く感ずるやうに成つた。忘れるなといふ一生の教訓《をしへ》の其|生命《いのち》――喘《あへ》ぐやうな男性《をとこ》の霊魂《たましひ》の其呼吸――子の胸に流れ伝はる親の其血潮――それは父の亡くなつたと一緒にいよ/\深い震動を丑松の心に与へた。あゝ、死は無言である。しかし丑松の今の身に取つては、千百の言葉を聞くよりも、一層《もつと》深く自分の一生のことを考へさせるのであつた。
 牛小屋のあるところまで行くと、父の残した事業が丑松の眼に映じた。一週《ひとまはり》すれば二里半にあまるといふ天然の大牧場、そここゝの小松の傍《わき》には臥《ね》たり起きたりして居る牝牛の群も見える。牛小屋は高原の東の隅に在つて、粗造《そまつ》な柵の内には未《ま》だ角の無い犢《こうし》も幾頭か飼つてあつた。例の番小屋を預かる男は人々を款待顔《もてなしがほ》に、枯草を焚いて、猶《なほ》さま/″\の燃料《たきつけ》を掻集めて呉れる。丁度そこには叔父も丑松も待合せて居た。男も、女も、斯の焚火の周囲《まはり》に集つたかぎりは、昨夜一晩寝なかつた人々、かてゝ加へて今日の骨折――中にはもう烈しい疲労《つかれ》が出て、半分眠り乍ら落葉の焼ける香を嗅いで居るものもあつた。叔父は、牛の群に振舞ふと言つて、あちこちの石の上に二合ばかりの塩を分けてやる。父の飼ひ慣れたものかと思へば、丑松も可懐《なつか》しいやうな気になつて眺《なが》めた。それと見た一頭の黒い牝牛は尻毛を動かして、塩の方へ近《ちかづ》いて来る。眉間《みけん》と下腹と白くて、他はすべて茶褐色な一頭も耳を振つて近いた。吽《もう》と鳴いて犢《こうし》の斑《ぶち》も。さすがに見慣れない人々を憚るかして、いづれも鼻をうごめかして、塩の周囲《まはり》を遠廻りするものばかり。嘗《な》めたさは嘗めたし、烏散《うさん》な奴は見て居るし、といふ顔付をして、じり/\寄りに寄つて来るのもあつた。
 斯の光景《ありさま》を見た時は、叔父も笑へば、丑松も笑つた。斯ういふ可愛らしい相手があればこそ、寂しい山奥に住まはれもするのだと、人々も一緒にな
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