なきがら》を納めたといふは、極《ご》く粗末な棺。其|周囲《まはり》を白い布で巻いて、前には新しい位牌《ゐはい》を置き、水、団子、外には菊、樒《しきみ》の緑葉《みどりば》なぞを供へてあつた。読経も一きりになつた頃、僧の注意で、年老いた牧夫の見納めの為に、かはる/″\棺の前に立つた。死別の泪《なみだ》は人々の顔を流れたのである。丑松も叔父に導かれ、すこし腰を曲《こゞ》め、薄暗い蝋燭《らふそく》の灯影に是世の最後の別離《わかれ》を告げた。見れば父は孤独な牧夫の生涯を終つて、牧場の土深く横はる時を待つかのやう。死顔は冷かに蒼《あをざ》めて、血の色も無く変りはてた。叔父は例の昔気質《むかしかたぎ》から、他界《あのよ》の旅の便りにもと、編笠、草鞋《わらぢ》、竹の輪なぞを取添へ、別に魔除《まよけ》と言つて、刃物を棺の蓋の上に載せた。軈《やが》て復《ま》た読経《どきやう》が始まる、木魚の音が起る、追懐の雑談は無邪気な笑声に交つて、物食ふ音と一緒になつて、哀しくもあり、騒がしくもあり、人々に妨げられて丑松は旅の疲労《つかれ》を休めることも出来なかつた。
 一夜は斯ういふ風に語り明した。小諸の向町へは通知して呉れるなといふ遺言もあるし、それに移住《ひつこし》以来《このかた》十七年あまりも打絶えて了つたし、是方《こちら》からも知らせてやらなければ、向ふからも来なかつた。昔の『お頭』が亡くなつたと聞伝へて、下手なものにやつて来られては反つて迷惑すると、叔父は唯そればかり心配して居た。斯の叔父に言はせると、墓を牧場に択んだのは、かねて父が考へて居たことで。といふは、もし根津の寺なぞへ持込んで、普通の農家の葬式で通ればよし、さも無かつた日には、断然|謝絶《ことわ》られるやうな浅猿《あさま》しい目に逢ふから。習慣の哀しさには、穢多は普通の墓地に葬る権利が無いとしてある。父は克く其を承知して居た。父は生前も子の為に斯ういふ山奥に辛抱して居た。死後もまた子の為に斯の牧場に眠るのを本望としたのである。
『どうかして斯の「おじやんぼん」(葬式)は無事に済ましたい――なあ、丑松、俺はこれでも気が気ぢやねえぞよ。』
 斯ういふ心配は叔父ばかりでは無かつた。
 翌日《あくるひ》の午後は、会葬の男女《をとこをんな》が番小屋の内外《うちそと》に集つた。牧場の持主を始め、日頃牝牛を預けて置く牛乳屋なぞも、其と聞伝へたかぎりは弔ひにやつて来た。父の墓地は岡の上の小松の側《わき》と定まつて、軈《やが》ていよいよ野辺送りを為ることになつた時は、住み慣れた小屋の軒を舁《かつ》がれて出た。棺の後には定津院の長老、つゞいて腕白顔な二人の子坊主、丑松は叔父と一緒に藁草履穿《わらざうりばき》、女はいづれも白の綿帽子を冠つた。人々は思ひ/\の風俗、紋付もあれば手織縞《ておりじま》の羽織もあり、山家の習ひとして多くは袴も着けなかつた。斯の飾りの無い一行の光景《ありさま》は、素朴な牛飼の生涯に克《よ》く似合つて居たので、順序も無く、礼儀も無く、唯|真心《まごゝろ》こもる情一つに送られて、静かに山を越えた。
 式も亦《ま》た簡短であつた。単調子な鉦《かね》、太鼓、鐃※[#「金+祓のつくり」、第3水準1−93−6]《ねうはち》の音、回想《おもひで》の多い耳には其も悲哀な音楽と聞え、器械的な回向と読経との声、悲嘆《なげき》のある胸には其もあはれの深い挽歌《ばんか》のやうに響いた。礼拝《らいはい》し、合掌し、焼香して、軈て帰つて行く人々も多かつた。棺は間もなく墓と定めた場処へ移されたので、そこには掘起された『のつぺい』(土の名)が堆高《うづたか》く盛上げられ、咲残る野菊の花も土足に踏散らされてあつた。人々は土を掴《つか》んで、穴をめがけて投入れる。叔父も丑松も一塊《ひとかたまり》づゝ投入れた。最後に鍬《くは》で掻落した時は、崖崩れのやうな音して烈しく棺の蓋を打つ。それさへあるに、土気の襄上《のぼ》る臭気《にほひ》は紛《ぷん》と鼻を衝《つ》いて、堪へ難い思をさせるのであつた。次第に葬られて、小山の形の土饅頭が其処に出来上るまで、丑松は考深く眺め入つた。叔父も無言であつた。あゝ、父は丑松の為に『忘れるな』の一語《ひとこと》を残して置いて、最後の呼吸にまで其精神を言ひ伝へて、斯うして牧場の土深く埋もれて了つた――もう斯世《このよ》の人では無かつたのである。

       (六)

 兎《と》も角《かく》も葬式は無事に済《す》んだ。後の事は牧場の持主に頼み、番小屋は手伝ひの男に預けて、一同姫子沢へ引取ることになつた。斯《こ》の小屋に飼養《かひやしな》はれて居る一匹の黒猫、それも父の形見であるからと、しきりに丑松は連帰らうとして見たが、住慣《すみな》れた場処に就く家畜の習ひとして、離れて行くことを好まない。物を呉
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