しよ》つて出掛ける。ところが昨日に限つては持たなかつた。時刻に成つても帰らない。手伝ひの男も不思議に思ひ乍ら、塩を与へる為に牛小屋のあるところへ上つて行くと、牝牛の群が喜ばしさうに集まつて来る。丁度其中には、例の種牛も恍《とぼ》け顔《がほ》に交つて居た。見れば角は紅く血に染つた。驚きもし、呆《あき》れもして、来合せた人々と一緒になつて取押へたが、其時はもう疲れて居た故《せゐ》か、別に抵抗《てむかひ》も為なかつた。さて男は其処此処《そここゝ》と父を探して歩いた。漸《やうや》く岡の蔭の熊笹の中に呻吟《うめ》き倒れて居るところを尋ね当てゝ、肩に掛けて番小屋迄連れ帰つて見ると、手当も何も届かない程の深傷《ふかで》。叔父が聞いて駈付けた時は、まだ父は確乎《しつかり》して居た。最後に気息《いき》を引取つたのが昨夜の十時頃。今日は人々も牧場に集つて、番小屋で通夜と極めて、いづれも丑松の帰るのを待受けて居るとのことであつた。
『といふ訳で、』と叔父は丑松の顔を眺めた。『私が阿兄《あにき》に、何か言つて置くことはねえか、と尋ねたら、苦しい中にも気象はしやんとしたもので、「俺も牧夫だから、牛の為に倒れるのは本望だ。今となつては他に何にも言ふことはねえ。唯気にかゝるのは丑松のこと。俺が今日迄の苦労は、皆な彼奴《あいつ》の為を思ふから。日頃俺は彼奴に堅く言聞かせて置いたことがある。何卒《どうか》丑松が帰つて来たら、忘れるな、と一言|左様《さう》言つてお呉れ。」』
丑松は首を垂れて、黙つて父の遺言を聞いて居た。叔父は猶《なほ》言葉を継いで、
『「それから、俺は斯《こ》の牧場の土と成りたいから、葬式は根津の御寺でしねえやうに、成るなら斯の山でやつてお呉れ。俺が亡《な》くなつたとは、小諸《こもろ》の向町へ知らせずに置いてお呉れ――頼む。」と斯う言ふから、其時|私《わし》が「むゝ、解つた、解つた」と言つてやつたよ。すると阿兄《あにき》は其が嬉《うれ》しかつたと見え、につこり笑つて、軈《やが》て私の顔を眺め乍らボロ/\と涙を零《こぼ》した。それぎりもう阿兄は口を利かなかつた。』
斯ういふ父の臨終の物語は、言ふに言はれぬ感激を丑松の心に与へたのである。牧場の土と成りたいと言ふのも、山で葬式をして呉れと言ふのも、小諸の向町へ知らせずに置いて呉れと言ふのも、畢竟《つま》るところは丑松の為を思ふからで。丑松は其精神を酌取《くみと》つて、父の用意の深いことを感ずると同時に、又、一旦斯うと思ひ立つたことは飽くまで貫かずには置かないといふ父の気魄《たましひ》の烈しさを感じた。実際、父が丑松に対する時は、厳格を通り越して、残酷な位であつた。亡くなつた後までも、猶《なほ》丑松は父を畏《おそ》れたのである。
やがて丑松は叔父と一緒に、西乃入牧場を指して出掛けることになつた。万事は叔父の計らひで、検屍《けんし》も済み、棺も間に合ひ、通夜の僧は根津の定津院《じやうしんゐん》の長老を頼んで、既に番小屋の方へ登つて行つたとのこと。明日の葬式の用意は一切叔父が呑込んで居た。丑松は唯出掛けさへすればよかつた。此処から烏帽子《ゑぼし》ヶ|獄《だけ》の麓まで二十町あまり。其間、田沢の峠なぞを越して、寂しい山道を辿らなければならない。其晩は鼻を掴《つ》まゝれる程の闇で、足許《あしもと》さへも覚束なかつた。丑松は先に立つて、提灯の光に夜路を照らし乍ら、山深く叔父を導いて行つた。人里を離れて行けば行くほど、次第に路は細く、落ち朽ちた木葉を踏分けて僅かに一条《ひとすぢ》の足跡があるばかり。こゝは丑松が少年の時代に、克《よ》く父に連れられて、往つたり来たりしたところである。牛小屋のある高原の上へ出る前に、二人はいくつか小山を越えた。
(五)
谷を下ると其処がもう番小屋で、人々は狭い部屋の内に集つて居た。灯は明々《あか/\》と壁を泄《も》れ、木魚《もくぎよ》の音も山の空気に響き渡つて、流れ下る細谷川の私語《さゝやき》に交つて、一層の寂しさあはれさを添へる。家の構造《つくり》は、唯|雨露《あめつゆ》を凌ぐといふばかりに、葺《ふ》きもし囲ひもしてある一軒屋。たまさか殿城山の間道を越えて鹿沢《かざは》温泉へ通ふ旅人が立寄るより外には、訪《と》ふ人も絶えて無いやうな世離れたところ。炭焼、山番、それから斯の牛飼の生活――いづれも荒くれた山住の光景《ありさま》である。丑松は提灯《ちやうちん》を吹消して、叔父と一緒に小屋の戸を開けて入つた。
定津院の長老、世話人と言つて姫子沢の組合、其他父が生前懇意にした農家の男女《をとこをんな》――それらの人々から丑松は親切な弔辞《くやみ》を受けた。仏前の燈明は線香の烟《けぶり》に交る夜の空気を照らして、何となく部屋の内も混雑して居るやうに見える。父の遺骸《
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