を流れて、日をうけておもしろく光るのであつた。
 其日は灰紫色の雲が西の空に群《むらが》つて、飛騨《ひだ》の山脈を望むことは出来なかつた。あの千古人跡の到らないところ、もし夕雲の隔《へだ》てさへ無くば、定めし最早《もう》皚々《がい/\》とした白雪が夕日を帯びて、天地の壮観は心を驚かすばかりであらうと想像せられる。山を愛するのは丑松の性分で、斯うして斯の大傾斜大谿谷の光景《ありさま》を眺めたり、又は斯の山間に住む信州人の素朴な風俗と生活とを考へたりして、岩石の多い凸凹《でこぼこ》した道を踏んで行つた時は、若々しい総身の血潮が胸を衝《つ》いて湧上るやうに感じた。今は飯山の空も遠く隔つた。どんなに丑松は山の吐く空気を呼吸して、暫時《しばらく》自分を忘れるといふ其楽しい心地に帰つたであらう。
 山上の日没も美しく丑松の眼に映つた。次第に薄れて行く夕暮の反射を受けて、山々の色も幾度《いくたび》か変つたのである。赤は紫に。紫は灰色に。終《しまひ》には野も岡も暮れ、影は暗く谷から谷へ拡つて、最後の日の光は山の巓《いたゞき》にばかり輝くやうになつた。丁度天空の一角にあたつて、黄ばんで燃える灰色の雲のやうなは、浅間の煙の靡《なび》いたのであらう。
 斯《か》ういふ楽しい心地《こゝろもち》は、とは言へ、長く続かなかつた。荒谷《あらや》のはづれ迄行けば、向ふの山腹に連なる一村の眺望、暮色に包まれた白壁土壁のさま、其山家風の屋根と屋根との間に黒ずんで見えるのは柿の梢《こずゑ》か――あゝ根津だ。帰つて行く農夫の歌を聞いてすら、丑松はもう胸を騒がせるのであつた。小諸の向町から是処《こゝ》へ来て隠れた父の生涯《しやうがい》、それを考へると、黄昏《たそがれ》の景気を眺める気も何も無くなつて了《しま》ふ。切なさは可懐《なつか》しさに交つて、足もおのづから慄《ふる》へて来た。あゝ、自然の胸懐《ふところ》も一時《ひととき》の慰藉《なぐさめ》に過ぎなかつた。根津に近《ちかづ》けば近くほど、自分が穢多である、調里(新平民の異名)である、と其|心地《こゝろもち》が次第に深く襲《おそ》ひ迫つて来たので。
 暗くなつて第二の故郷へ入つた。もと/\父が家族を引連れて、この片田舎に移つたのは、牧場へ通ふ便利を考へたばかりで無く、僅少《わづか》ばかりの土地を極く安く借受けるやうな都合もあつたからで。現に叔父が耕して居るのは其畠である。流石《さすが》に用心深い父は人目につかない村はづれを択《えら》んだので、根津の西町から八町程離れて、とある小高い丘の裾《すそ》のところに住んだ。
 長野県小県郡根津村大字姫子沢――丑松が第二の故郷とは、其五十戸ばかりの小部落を言ふのである。

       (四)

 父の死去した場処は、斯《こ》の根津村の家ではなくて、西乃入《にしのいり》牧場の番小屋の方であつた。叔父は丑松の帰村を待受けて、一緒に牧場へ出掛ける心算《つもり》であつたので、兎も角も丑松を炉辺《ろばた》に座《す》ゑ、旅の疲労《つかれ》を休めさせ、例の無慾な、心の好ささうな声で、亡くなつた人の物語を始めた。炉の火は盛《さかん》に燃えた。叔母も啜《すゝ》り上げ乍《なが》ら耳を傾けた。聞いて見ると、父の死去は、老の為でもなく、病の為でも無かつた。まあ、言はゞ、職業の為に突然な最後を遂げたのであつた。一体、父が家畜を愛する心は天性に近かつたので、随つて牧夫としての経験も深く、人にも頼まれ、牧場の持主にも信ぜられた位。牛の性質なぞはなか/\克《よ》く暗記して居たもの。よもや彼《あ》の老練な人が其道に手ぬかりなどの有らうとは思はれない。そこがそれ人の一生の測りがたさで、不図《ふと》ある種牛を預つた為に、意外な出来事を引起したのであつた。種牛といふのは性質《たち》が悪かつた。尤《もつと》も、多くの牝牛《めうし》の群の中へ、一頭の牡牛《をうし》を放つのであるから、普通の温順《おとな》しい種牛ですら荒くなる。時としては性質が激変する。まして始めから気象の荒い雑種と来たから堪《たま》らない。広濶《ひろ/″\》とした牧場の自由と、誘ふやうな牝牛の鳴声とは、其種牛を狂ふばかりにさせた。終《しまひ》には家養の習慣も忘れ、荒々しい野獣の本性《ほんしやう》に帰つて、行衛《ゆくへ》が知れなくなつて了《しま》つたのである。三日|経《た》つても来ない。四日経つても帰らない。さあ、父は其を心配して、毎日水草の中を捜《さが》して歩いて、ある時は深い沢を分けて日の暮れる迄も尋ねて見たり、ある時は山から山を猟《あさ》つて高い声で呼んで見たりしたが、何処にも影は見えなかつた。昨日の朝、父はまた捜しに出た。いつも遠く行く時には、必ず昼飯《ひる》を用意して、例の『山猫』(鎌《かま》、鉈《なた》、鋸《のこぎり》などの入物)に入れて背負《
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