語に。
『時に、』と蓮太郎は何か深く考へることが有るらしく、『つかんことを伺ふやうですが、斯《こ》の根津の向町に六左衛門といふ御大尽《おだいじん》があるさうですね。』
『はあ、ごはすよ。』と叔母は客の顔を眺めた。
『奈何《どう》でせう、御聞きでしたか、そこの家《うち》につい此頃婚礼のあつたとかいふ話を。』
 斯う蓮太郎は何気なく尋ねて見た。向町は斯の根津村にもある穢多の一部落。姫子沢とは八町程離れて、西町の町はづれにあたる。其処に住む六左衛門といふは音に聞えた穢多の富豪《ものもち》なので。
『あれ、少許《ちつと》も其様《そん》な話は聞きやせんでしたよ。そんなら聟《むこ》さんが出来やしたかいなあ――長いこと彼処《あすこ》の家の娘も独身《ひとり》で居りやしたつけ。』
『御存じですか、貴方は、その娘といふのを。』
『評判な美しい女でごはすもの。色の白い、背のすらりとした――まあ、彼様《あん》な身分のものには惜しいやうな娘《こ》だつて、克《よ》く他《ひと》が其を言ひやすよ。へえもう二十四五にも成るだらず。若く装《つく》つて、十九か二十位にしか見せやせんがなあ。』
 斯ういふ話をして居る間にも、蓮太郎は何か思ひ当ることがあるといふ風であつた。待つても/\丑松が帰つて来ないので、軈て蓮太郎はすこし其辺《そこいら》を散歩して来るからと、田圃《たんぼ》の方へ山の景色を見に行つた――是非丑松に逢ひたい、といふ言伝《ことづて》を呉々も叔母に残して置いて。

       (二)

『これ、丑松や、猪子といふ御客|様《さん》がお前《めへ》を尋ねて来たぞい。』斯《か》う言つて叔母は駈寄つた。
『猪子先生?』丑松の目は喜悦《よろこび》の色で輝いたのである。
『多時《はあるか》待つて居なすつたが、お前が帰らねえもんだで。』と叔母は丑松の様子を眺め乍ら、『今々其処へ出て行きなすつた――ちよツくら、田圃《たんぼ》の方へ行つて見て来るツて。』斯う言つて、気を変へて、『一体|彼《あ》の御客様は奈何《どう》いふ方だえ。』
『私の先生でさ。』と丑松は答へた。
『あれ、左様《さう》かつちや。』と叔母は呆れて、『そんならそのやうに、御礼を言ふだつたに。俺はへえ、唯お前の知つてる人かと思つた――だつて、御友達のやうにばかり言ひなさるから。』
 丑松は蓮太郎の跡を追つて、直に田圃の方へ出掛けようとしたが、丁度そこへ叔父も帰つて来たので、暫時《しばらく》上《あが》り端《はな》のところに腰掛けて休んだ。叔父は酷《ひど》く疲れたといふ風、家の内へ入るが早いか、『先づ、よかつた』を幾度と無く繰返した。何もかも今は無事に済んだ。葬式も。礼廻りも。斯ういふ思想《かんがへ》は奈何《どんな》に叔父の心を悦《よろこ》ばせたらう。『ああ――これまでに漕付《こぎつ》ける俺の心配といふものは。』斯う言つて、また思出したやうに安心の溜息を吐くのであつた。『全く、天の助けだぞよ。』と叔父は附加して言つた。
 平和な姫子沢の家の光景《ありさま》と、世の変遷《うつりかはり》も知らずに居る叔父夫婦の昔気質《むかしかたぎ》とは、丑松の心に懐旧の情を催さした。裏庭で鳴き交す鶏の声は、午後の乾燥《はしや》いだ空気に響き渡つて、一層|長閑《のどか》な思を与へる。働好な、壮健《たつしや》な、人の好い、しかも子の無い叔母は、いつまでも児童《こども》のやうに丑松を考へて居るので、其|児童扱《こどもあつか》ひが又、些少《すくな》からず丑松を笑はせた。『御覧やれ、まあ、あの手付なぞの阿爺《おやぢ》さんに克く似てることは。』と言つて笑つた時は、思はず叔母も涙が出た。叔父も一緒に成つて笑つた。其時叔母が汲んで呉れた渋茶の味の甘かつたことは。款待振《もてなしぶり》の田舎饅頭《ゐなかまんぢゆう》、その黒砂糖の餡《あん》の食ひ慣れたのも、可懐《なつか》しい少年時代を思出させる。故郷に帰つたといふ心地《こゝろもち》は、何よりも深く斯ういふ場合に、丑松の胸を衝《つ》いて湧上《わきあが》るのであつた。
『どれ、それでは行つて見て来ます。』
 と言つて家を出る。叔父も直ぐに随いて出た。何か用事ありげに呼留めたので、丑松は行かうとして振返つて見ると、霜葉《しもば》の落ちた柿の樹の下のところで、叔父は声を低くして
『他事《ほか》ぢやねえが、猪子で俺は思出した。以前《もと》師範校の先生で猪子といふ人が有つた。今日の御客様は彼人《あのひと》とは違ふか。』
『それですよ、その猪子先生ですよ。』と丑松は叔父の顔を眺め乍ら答へる。
『むゝ、左様《さう》かい、彼人かい。』と叔父は周囲《あたり》を眺め廻して、やがて一寸親指を出して見せて、『彼人は是《これ》だつて言ふぢやねえか――気を注《つ》けろよ。』
『はゝゝゝゝ。』と丑松は快活らしく笑つて、『叔父さん、其様
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