弾じて、銭を乞ふやうな卑《いや》しい芸人の一組もあつた。丑松は眺め入つた。眺め入り乍ら、自分の身の上と思ひ比べた。奈何《どんな》に丑松は今の境涯の遣瀬《やるせ》なさを考へて、自在に漂泊する旅人の群を羨んだらう。
 飯山を離れて行けば行く程、次第に丑松は自由な天地へ出て来たやうな心地《こゝろもち》がした。北国街道の灰色な土を踏んで、花やかな日の光を浴び乍ら、時には岡に上り時には桑畠の間を歩み、時にはまた街道の両側に並ぶ町々を通過ぎて、汗も流れ口も乾き、足袋《たび》も脚絆も塵埃《ほこり》に汚《まみ》れて白く成つた頃は、反《かへ》つて少許《すこし》蘇生の思に帰つたのである。路傍《みちばた》の柿の樹は枝も撓《たわ》むばかりに黄な珠を見せ、粟は穂を垂れ、豆は莢《さや》に満ち、既に刈取つた田畠には浅々と麦の萌《も》え初めたところもあつた。遠近《をちこち》に聞える農夫の歌、鳥の声――あゝ、山家でいふ『小六月』だ。其日は高社山一帯の山脈も面白く容《かたち》を顕《あらは》して、山と山との間の深い谷蔭には、青々と炭焼の煙の立登るのも見えた。
 蟹沢《かにざは》の出はづれで、当世風の紳士を乗せた一台の人力車《くるま》が丑松に追付いた。見れば天長節の朝、式場で演説した高柳利三郎。代議士の候補者に立つものは、そろ/\政見を発表する為に忙しくなる時節。いづれ是人も、選挙の準備《したく》として、地方廻りに出掛けるのであらう。と見る丑松の側《わき》を、高柳は意気揚々として、すこし人を尻目にかけて、挨拶も為《せ》ずに通過ぎた。二三町離れて、車の上の人は急に何か思付いたやうに、是方《こちら》を振返つて見たが、別に丑松の方では気にも留めなかつた。
 日は次第に高くなつた。水内《みのち》の平野は丑松の眼前《めのまへ》に展けた。それは広濶《ひろ/″\》とした千曲川の流域で、川上から押流す泥砂の一面に盛上つたところを見ても、氾濫《はんらん》の凄《すさま》じさが思ひやられる。見渡す限り田畠は遠く連ねて、欅《けやき》の杜《もり》もところ/″\。今は野も山も濃く青い十一月の空気を呼吸するやうで、うら枯れた中にも活々《いき/\》とした自然の風趣《おもむき》を克《よ》く表して居る。早く斯《こ》の川の上流へ――小県《ちひさがた》の谷へ――根津の村へ、斯う考へて、光の海を望むやうな可懐《なつか》しい故郷の空をさして急いだ。
 豊野と言つて汽車に乗るべきところへ着いたは、午後の二時頃。車で駈付けた高柳も、同じ列車を待合せて居たと見え、発車時間の近いた頃に休茶屋からやつて来た。『何処《どこ》へ行くのだらう、彼《あの》男は。』斯う思ひ乍ら、丑松は其となく高柳の様子を窺《うかゞ》ふやうにして見ると、先方《さき》も同じやうに丑松を注意して見るらしい。それに、不思議なことには、何となく丑松を避けるといふ風で、成るべく顔を合すまいと勉めて居た。唯互ひに顔を知つて居るといふ丈、つひぞ名乗合つたことが有るではなし、二人は言葉を交さうともしなかつた。
 軈て発車を報せる鈴の音が鳴つた。乗客はいづれも埒《らち》の中へと急いだ。盛《さかん》な黒烟《くろけぶり》を揚げて直江津の方角から上つて来た列車は豊野|停車場《ステーション》の前で停つた。高柳は逸早《いちはや》く群集《ひとごみ》の中を擦抜《すりぬ》けて、一室の扉《と》を開けて入る。丑松はまた機関車|近邇《より》の一室を択《えら》んで乗つた。思はず其処に腰掛けて居た一人の紳士と顔を見合せた時は、あまりの奇遇に胸を打たれたのである。
『やあ――猪子先生。』
 と丑松は帽子を脱いで挨拶した。紳士も、意外な処で、といふ驚喜した顔付。
『おゝ、瀬川君でしたか。』

       (二)

 夢寐《むび》にも忘れなかつた其人の前に、丑松は今偶然にも腰掛けたのである。壮年の発達に驚いたやうな目付をして、可懐《なつか》しさうに是方《こちら》を眺めたは、蓮太郎。敬慕の表情を満面に輝かし乍ら、帰省の由緒《いはれ》を物語るのは、丑松。実に是|邂逅《めぐりあひ》の唐突で、意外で、しかも偽りも飾りも無い心の底の外面《そと》に流露《あらは》れた光景《ありさま》は、男性《をとこ》と男性との間に稀《たま》に見られる美しさであつた。
 蓮太郎の右側に腰掛けて居た、背の高い、すこし顔色の蒼い女は、丁度読みさしの新聞を休《や》めて、丑松の方を眺めた。玻璃越《ガラスご》しに山々の風景を望んで居た一人の肥大な老紳士、是も窓のところに倚凭《よりかゝ》つて、振返つて二人の様子を見比べた。
 新聞で蓮太郎のことを読んで見舞状まで書いた丑松は、この先輩の案外元気のよいのを眼前《めのまへ》に見て、喜びもすれば不思議にも思つた。かねて心配したり想像したりした程に身体《からだ》の衰弱《おとろへ》が目につくでも無
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